「ご用でしょうか?」
ハン理事に呼び出され、わたしは浴室に入った。
彼は真っ白い陶器の湯船に浸かって、天井を見上げていた。
わたしの方を見ることもなく、低くかすれた声で呟く。
「髪を洗ってくれ」
そんなことで呼び出したらしい。
「かしこまりました」
わたしはハン理事の頭のほうに、スーツのまま、濡れた床の上に膝をついた。
いつも使っているシャンプーとコンディショナーは横に置いてある。
わたしはシャンプーからポンプで中身を手のひらにのせ、ハン理事の髪に触れた。
柔らかな質感の髪に、シャンプーをつけて、泡立てて行く。
なるべく丁寧に、やさしい手つきを心がけた。
シャンプーの、花束のような香りが鼻をくすぐる。
ふぅ、とハン理事はため息をついた。
「……嫌なことでもございましたか?」
わたしはたずねた。
部下の分際で、差し出がましいことだが、つい口に出してしまった。
「別に、何も無い」
これは何かあったな、と思った。
そういえば昼間はハン理事の義母と義妹が邸を訪れていた。その席で何か不愉快なことがあったか、それとも昔の出来事を思い出させるようなことがあったのだろう。
「そうですか」
わたしは答えて、ハン理事の頭皮をマッサージするように揉み始めた。
「う……ん」
気持ち良いのか、ハン理事は目を閉じた。
「どこかかゆいとこなどございますか?」
まるで美容師のようなことを聞くと、ハン理事は鼻で笑った。
「いい、大丈夫だ。そのまま続けてくれ」
わたしは言われた通り、頭皮をやさしく揉み続けた。
しだいにハン理事は深く呼吸するようになってきた。リラックスしているのだろう。
「もう流してよろしいですか?」
「あぁ」
わたしはシャワーを手に取り、湯加減を確かめると、髪から泡を流していく。
水が顔にかからないように気を遣った。
きれいに流し終わり、今度はコンディショナーを髪に揉み込む。
「……おまえの手は大きくて気持ちがいいな」
返事を求める様子もなく、ハン理事は呟いた。
これは、甘えられているのか、とわたしは理解した。
そう思ったら、急にハン理事が子どものように思えて、ぐっと胸が痛む。
コンディショナーをしばらく置く時間に、わたしはたずねた。
「その……今夜はわたしをお呼びくださらないのでしょうか」
「ん? なんだ? 俺を抱きたいのか?」
「……はい」
バカ正直に答えると、ハン理事はにやりと笑った。
「珍しいな。おまえこそ何かあったのか?」
「いえ、何も」
ただ、あなたを抱きしめたくなっただけです。
とは、言えなかった。
「いいぞ、抱いてくれ」
ハン理事はが言ったので、わたしは黙ってコンディショナーを流した。
その後はタオルで髪から水分を拭き取って差し上げた。
「はい、これで終わりです。のぼせていらっしゃいませんか?」
「平気だ。俺はこれで出るから、おまえもシャワーを浴びて来い」
「承知いたしました」
湯船を出て立ち上がったハン理事を、そっと抱きしめた。
「……濡れてるぞ?」
「構いません」
そう言うと、ハン理事は腕の中で力を抜いた。
「はは、かわいい奴だ」
ハン理事はそう言って、わたしの肩に濡れた頭を擦り付けた。
猫みたいな人だ、と思いながら、わたしは浴室に満たされたシャンプーの香りを吸い込んだ。
おしまい