午前一時。
街が寝静まった頃、大通りから一本入った脇道で、俺は待っていた。
まだ夏が終わったばかりで、暑くも寒くもない気温で助かる。薄いジャケットを羽織っただけの俺は、スマートフォンに表示される時刻をちらちら見ながら、塀の前に立っている。
今夜も外れかもしれない。いや、でも今夜こそは……。
塀に描かれている落書きの絵を見つめた。
こういうのは落書きじゃなくて、グラフィティって呼ばれるらしい。
おそらく事件現場を描いた鳥瞰図が描かれているが、まだ書きかけ途中だ。だから、あいつはきっと続きを描きに現れるはずだ。
ちょっと眠気が襲ってきて、欠伸をひとつしたところで、人影が現れた。
目を凝らして暗闇の奥を見つめる。
スーパーの袋にスプレー缶をたくさん詰め込んで歩いてくる男。
背筋を丸めて、まるで何かから隠れるような姿勢で。
電柱の灯りの下で、サラサラの黒髪が照らされる。そして目鼻立ちの整った二十代半ばの男の顔がはっきりと見えた。
「見つけた!」
俺は叫んだ。
男は、弾かれたように顔を上げて立ち止まった。
「……ヤン・チュンドン!?」
「そうだ、俺だ! 久しぶりだな、キム・ジュン!」
俺は名前を呼ばれて、嬉しくなって駆け寄った。
ところが、その男――キム・ジュンは踵を返すと、元来た方向に走り始めた。
「あっ、待て、このやろ」
俺は慌てて追いかける。
真夜中の追いかけっこが始まった。
二つ向こうのブロックの端に着くまでの間に追いついた。伊達に強力班の刑事をやっているわけじゃない。走りには自信がある。対して、ジュンは普段家にこもって絵ばかり描いている。後ろから羽交い締めにした時、ジュンはすでにゼーハー息を切らしていた。
「やっと捕まえたぞ。何で逃げる?」
「ハァハァ、あんたこそ、何でまた俺の前に現れた!」
「えっ」
予想外の質問に、思わず腕を緩めてしまった。しかしジュンはもう逃げる気はないようだった。二人して道路の上に座り込んで向き合った。
「何でって……まだ事件解決の礼を言ってないし、お見舞い来てくれた礼も言ってないし、それに……会いたかったからだろ!」
恥ずかしいけれど正直に言ったら、ジュンはがくりと項垂れた。
「会いたかった、って……あのさぁ……」
「なんだよ、悪いか」
「もういいよ」
ジュンは呆れたように言って、ため息をつくと立ち上がった。
俺も急いで立ち上がる。
「家はどこだ? このへんに住んでるのか?」
「近くだよ。……来る?」
「もちろん!」
図々しく答えて、歩き出すジュンの後ろを着いていく。
複雑な裏通りをしばらくクネクネと歩いていき、四階建ての小さなアパートに行き着いた。俺はたずねる。
「また屋上に住んでたりすんのか?」
「まさか。三階だよ」
「そっか」
ぼそぼそ喋りながら、階段を上がる。
角部屋のドアの前でジュンは鍵を出して、ドアを開け、俺を招き入れた。
「おぉ、人間らしい暮らししてるじゃん!」
部屋の中は物が少ないが、生活感はあるので、俺は内心ほっとした。
ジュンは、俺の知る限りだが、ネグレクトぎみなところがあるので、心配していたのだ。
ちゃんとソファもあるし、キッチンには自炊している痕跡もある。
「ふぁぁ~。眠い」
俺はソファに飛び乗って横になろうとした。
「はっ? いきなり寝るな!」
ジュンは驚いて言った。
「おまえが来るのが遅いせいだ」
「何言って」
「あ、そうだ。ありがとな、おまえのおかげで事件解決した。俺が寝てる間、見舞いに来てくれたって聞いて嬉しかった。サンキュ」
ジュンの目を見てちゃんと言った。ジュンは目を丸くして黙ってしまった。
俺は安心して、ソファに寝転がって目を閉じた。
始めて訪れたというのに、ジュンの新居は居心地が良いから不思議だった。
ふかふかのソファは真新しい匂いがする。
おそらく、ジュンに会えて安堵して、今までの疲れがどっと出たのだろう。
短時間だが熟睡して、起きたら、朝になっていた。
カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。
「あっ、ジュン……!」
俺は、またジュンがいなくなったような気がして、慌てて起き上がった。
だが、すぐ横に本人が座っていて、はーっと息を吐いた。
「なんだ、いたか」
「自分の部屋だ、当然いるだろ」
「そうなんだけど、おまえってすぐいなくなっちゃうから……って、寝てないのか?」
「寝られるかよ」
俺を睨みながら言うジュンに、俺は首を傾げた。
自分の部屋なんだから、ちゃんとベッドで寝ればいいのに。
何故寝られないのかわからなかった。
「ていうか、アンタ、今日仕事じゃないのか?」
「あっ!」
俺は時計を見て、胸を撫で下ろした。まだ遅刻じゃない。
「なんか食うか? たいしたもんはないけど……」
「あーいい、仕事行く。でもまた夜来るから、絶対いろよ、ここに。いなくなるんじゃねぇぞ! わかったな!」
俺は何回も言い聞かせて、ジュンの部屋を出た。
スマートフォンの地図を頼りに、そのまま麻浦署に向かうことにした。
その日から、自分の家に戻って着替えやら何やらは済ませるが、大部分の時間をジュンの部屋で過ごすようになった。
ジュンは諦めたのか、何も言わなくなった。
俺が居ても、気にせずに仕事をしたりしている。仕事っていうのは、請け負いでパソコンで絵を描いているらしい。受注も納品も全てウェブ上で完結するから向いているのだそうだ。器用なやつだ。
例のグラフィティについては、俺が来るから外で描く必要はなくなった。
俺の目の前で画用紙に、鳩を通じて見えた光景を描いてもらう。
それを、俺は現実の事件と照らし合わせて捜査する。そのおかげで麻浦署の検挙率が圧倒的に高くなった。俺も強力班内で重宝されるようになった。
この生活は非常にうまく回っていた、ように思えた。俺だけには。
ただちょっとジュンの睡眠時間が昼夜逆転していて、健康的じゃないなと思ったくらいだった。はっきり問題が浮かび上がったのは、俺がジュンの部屋に焼酎を持ち込んだ日のことだった。
「たまにはどうだ、おまえ、酒飲めるのか?」
「飲める、けど飲まない」
ジュンは冷たく答えた。
「何で!」
「飲むならアンタ一人で飲んでろ。俺は仕事する」
にべもなくそう言って、ジュンはパソコンの前に座ってしまった。
仕方なく俺は一人さびしく飲むことにした。コンビニで買ってきたスモークタンをつまみに、焼酎をちびちび飲む。スマートフォンの動画なんかを見ながら、退屈を紛らわしていたが、だんだん我慢できなくなってきた。
「なぁ~一緒に飲もうよぉ、つまんないだろ?」
「うるさいな」
「冷たいぞぉ~」
俺はジュンに近寄って、背中から抱きついた。
「前から思ってたけど、おまえは冷たい。もっと俺に構えよ~」
すると、ジュンは仕事の手を止めて、言い返した。
「俺も前から思ってたけど、何でアンタは俺のとこに来るんだ?」
「は? それは会いたいからだって」
「だから、何で会いたいんだ?」
背中にくっつく俺を振り返ってジュンは聞く。
「なんで俺なんかに?」
「おい」
俺は背中を抱きしめる腕の力を強くした。
「まだ、俺なんかって言うのか? なんかじゃないだろ? やめろよ、そういう言い方すんの」
俺は畳み掛けるように言った。
まったく、冗談じゃない。誰だって「なんか」をつけていい人間はいないし、ましてや、ジュンが言うのは間違っている。憤慨する俺の腕の中から、ジュンは力任せに抜け出した。
「だったら……!」
何事か言い返そうとして、口をつぐみ、顔を近づけて来たと思ったら……。
唇を塞がれた。
ジュンの唇で、だ。
俺はあまりにもびっくりして、時が止まったように思えた。
普通、うるさいからって唇で唇を塞ぐか? やらないだろう。だって、まるでキスのようじゃないか。
「……何で抵抗しないんだ」
「えっ」
唇を離して初めてジュンの言った言葉がそれだったので、俺はますますわけわからない。
「だから、俺はアンタの前から一度消えたのに……どこまでも追ってきて、それどころか毎日居座るから、俺がどれだけ我慢してたか……アンタが同じ部屋の中にいて眠れるわけないだろう? 俺は、アンタの弟じゃないんだぞ!」
苦しそうに言い募るジュンに、俺は呆然とした。
どういう意味なんだ。わからない。
ただ、俺がいるとジュンが苦しそうだ、ということだけはわかった。
「弟って、別に、俺は……」
言い訳しながら後ずさった。
ジュンは、自分から突き放したのに、まるで縋るような目つきで俺を見つめている。
そのとおりだ。ジュンの言うとおり、俺はこいつを勝手に弟扱いしていたのだ。
でも違う、こいつは一人の男で、俺のわからないことを考えている。
わからない。
俺も、手で触れれば相手の考えていることが読めたら良かったのに。
そうしたら、こんなにこいつを困らせないで済んだろうに。
「悪かった……っ」
今度、逃げ出したのは俺の方だった。
つまづきながら、部屋を飛び出した。
「いやー、おまえのおかげでバンバン犯人を検挙できて、俺も鼻高々だよ」
班長の奢りで帰りに一杯飲みながら、夕飯にチーズタッカルビを食べていた。
チョン刑事も一緒だ。彼は乾杯した後、言った。
「ところで、今日おまえやけに大人しいな? 何かやらかしたのか?」
「やらかして……したかも、うん」
「はぁ?」
以前は喧嘩ばかりしていたチョン刑事とは、ウンジ事件が解決した頃からやっと打ち解けて話せるようになった。ちゃんと話してみれば、真っ直ぐないいヤツだということがわかった。
俺も、ちょっと前まではひねくれていたのかもしれない。
卑屈にはなっていなかったが、世の中をねじ曲がって見ていたところがある。
しかし、ジュンに出会って、なんとなく変わったのだ。
刑事という仕事に一生懸命に向き合えるようになった。
だから、俺はジュンに感謝している。なのに、ジュンのほうは俺といるのが嫌なんだ。
しょぼくれていると、チョン刑事はさらに言った。
「さては、女にふられたな?」
俺は肩をすくめた。
「女じゃないし、ふられてもいねぇよ。それどころか、キスされたんだぞ」
ぶはっとチョン刑事は焼酎を吹き出した。
「女じゃないなら何の話だよ、動物か?」
それ以上は俺は何も言わなかった。
最後にキスをした。確かに、あれはキスだった。
そう思ったのは、部屋を出て、残った感触を指で確かめたときだった。
「犬か猫か知らないが、勘違いしたんだろ。そんなツラしてるぜ」
「お、なんだ。色恋の話か? 俺にもわかるように説明しろ!」
班長が絡んできたので、俺はやけになって取り皿の上のチーズタッカルビを口の中に掻き込んだ。
「ぐふっ、もう腹いっぱいだ」
俺はさっさと席を立った。
「なんだ、もう行くのか?」
「あぁ、ちょっと用事思い出した」
俺は彼らを置いて店を出た。
夜空を見ながら、煙草を一本吸う。
「はぁ、そうか、勘違いしていたのか」
チョン刑事に言われたことを反芻する。
確かに俺は、ジュンを弟として見ていた。
弟が今もそばにいたらこんな感じだろうか、と思っていた。けれど、当然だが、ジュンの方はそうではなかったんだ。
あのキスは、そういう意味だったんかな。
今でも感触が残っている気がする。全然嫌ではなかった。むしろ……。
逃げ出したのは間違いだった。
俺は、煙草を吸い終わった後、再びジュンの家に向かって歩き出した。
ジュンは部屋にはいなかった。
再会してから無理矢理買わせたスマートフォンにも出ない。
またいなくなってしまったかも、と落ち込んで、部屋のドアの前で座り込んだ。
前回ジュンが姿を消して、ケータイも繋がらなくなったときのことを思い出す。
ぞっとした。
あんな絶望感はもういやだ。
この気持ちはなんだ? 弟みたいだからか? いや、違うだろ。
考えるにはじゅうぶんな時間があった。
ドアの前で膝をかかえて三時間は立った頃、階段から足音が聞こえてきた。
だが、眠くなっていた俺は、顔を上げるのも面倒くさくなっていた。
「あんた、何やってんだここで。いつから?」
ジュンの声が上から降ってきて、びくっとして目覚めた。
「ジュン、戻ってきたぁ」
涙目になった俺に、ジュンは呆れたように口を尖らす。
「自分の家なんだから戻って来るに決まってるだろ」
「でもぉ」
「入るんならさっさと入れよ。でもまた襲われてもしらないぞ」
「え」
ドアの鍵を開けたジュンの前で、俺は立ち止まった。
だが、もうびびらない。
「く、来るなら来い!」
「どういう意味だ、それ」
「おまえがそうしたいならそうしても構わないってことだよ!」
そう言って俺はずかずかと勝手知ったるジュンの部屋に入っていく。
「ちょっと待て、アンタ何言って」
「俺はおまえが好きだ。……多分」
「えっ」
ジュンは固まった。
「お、俺は、アンタの弟じゃないんだぞ?」
「弟だったらこんなこと言うか。おまえだから言うんだ」
「う、嘘だ」
「疑うなら、手、握ってみろ」
そう言って俺は、右手を差し出した。
隠すことはなにもない。正直な気持ちだ。
ジュンは、右手を出して逡巡したが、結局触れずに下ろした。
「……信じるよ」
右手で俺の手を握る代わりに、俺の体を両腕で抱きしめた。
「信じるから、俺を許して。受け入れて」
ぎゅっと腕に力を込めて、耳元でささやいた。
男という生き物はどうしてこう直情的なんだろうか。
気持ちを告げ合った後、俺達はすぐ裸になって抱き合った。
ジュンの言うところによると、夜、俺が寝ている間、手を出そうかどうしようか考えて眠れなかったのだそうだ。その欲求不満を満たすように、ジュンは俺の皮膚のあらゆるところを触りたがった。
俺は皮膚の薄いところを触られるだけで勃起してしまい、情けなくも、射精させてくれとジュンに頼んだ。
ジュンは自分のものを扱きながら、俺のものも扱いて射精させてくれた。
その先もジュンはしたがったが、試してみたものの、尻の穴に挿れることは出来なかった。けれど、それはそれで満足して、抱き合ったまま眠りについた。
とりあえず、おしまい