不定形の極限

 数年前のことになる。
 珍しく班長が深酒をしていた。
 昼間の事件のせいだったと思う。
 施設で育った少年が、引き取られた先で養父に犯され、惨殺された。
 そんな残酷な事件には慣れているはずなのに、明らかに班長は様子がおかしかった。
 いつもは飲み始めてもすぐ帰るのに、その日はいつまでもだらだら店にいたので、一緒に飲んでいた俺は腕を掴んで立ち上がらせた。
「店も閉めたいみたいだから、うちで飲み直しませんか」
 俺はとことんつきあう気だった。
 こんなふうになっている彼は珍しくて、好奇心もあった。
 二人きりで飲むようなつきあいをしている上司と部下だが、俺はヤン・ジョンホのことを何も知らない。
 酔いつぶれたら、本当の彼がわかるのではないかという期待があった。
 うちに連れて帰って来てからも、彼はコップで焼酎をちびちび飲んでいた。
 そのうちにぐらぐら揺れて椅子から落ちそうだったので、俺は彼を抱えてソファまで連れて行った。ずっと班長は黙ったままで、やはり何を考えているかわからない。
 俺は床にしゃがみこんで、ソファに寝かせた彼の肩をそっと撫でた。
 可哀想なヤン・ジョンホ。
 何故だろう。何も知らないのに、彼が可哀想なことだけはわかる。
 いつも被害者に寄り添って、誠実な男だ。刑事として憧れでもある。
 なのに、いつも可哀想だ。
 俺は繰り返し、彼の肩から腕を撫でていた。
「寝てますか?」
 俺は確認しながら、撫でる範囲を広げていく。
 背中を撫でるためにもっと距離を縮め、首筋を撫で、子どもにするように頭を撫でた。
 そうして少しでも慰めようとしていたら、不意に班長は喋りだした。
「俺に、ひどいことをしてくれ」
 ぎょっとした。
 頭の中を覗かれたのかと思った。
 まさに今俺は彼にもっと触れたいと思っていて、でもそれは彼を傷つけるだろうかと逡巡していたところだったのだ。
「ひどいこと……」
 俺はつぶやきながら、顔を近づけて唇を合わせた。
 少し触れるだけ、と思っていたのに、その唇の柔らかさにうっとりして、そのまま深めていく。煙草と酒の味のする口腔内をまさぐっていると、彼の舌が応じてきた。
 俺はしばし夢中になって、班長の口の中の粘膜の感触を味わった。
「ん……いいぞ、その調子だ……」
 彼の言う「ひどいこと」が出来ていると、彼は褒めたのだ。
 俺は慰めたかっただけなのに。
 俺の慰めは、彼にとって酷いことなのだ。
 悲しくなって、俺は彼の背中を掻き抱いたら、彼は抱き返してくれた。
 どこまでも従順に応じてくる。
 俺はやけくそになった。
「あぁ、ヒョンの、望むとおりに」
 その夜、俺は初めてヒョンを抱いた。
 男に抱かれるのは初めてじゃないようだった。
 可哀想な、ヤン・ジョンホ。

「おまえ、これ、消さないのか?」
 唐突に班長がベッドの上でたずねた。
 聞き返さなくても、俺の首から背中にかけて入っている入れ墨のことだとわかる。
「これが役に立つこともある」
「少なくとも刑事には見えないからな」
 班長は言いながら俺のほうに手を伸ばして、入れ墨に触れた。
 つぅ、と指先で線をなぞられて、ぞくっとする。
「ヒョン……、煽ってんの?」
 俺はその悪戯な手を握って止めさせ、ヤン・ジョンホに向き直った。
「もう一回していい?」
 顔を近づけて聞くと、彼は視線を彷徨わせる。
「構わないが、……本当に変わった奴だな。俺なんかに欲情するなんて」
「今更だ」
 俺は答えて彼の頬を撫でた。
 事件解決の度に身体を重ねるようになって、数年が経つ。しっかり数えれば数えられるが、そんな面倒なことはしなくていい。
「そうだ、今更だ」
 彼は気難しい顔で答えた。
 まるで俺の性癖を憂いているように。
 自分でも大概だと思う。連帯感と性欲をごっちゃにするほどバカじゃないつもりだが、ヤン・ジョンホのいつもどこか泣き出しそうな顔を見ると、欲情する。
 それにつきあってくれる彼も彼だ。
 俺は彼の無防備な首筋に顔を埋めた。すんすん匂いを嗅ぎながら、体中をまさぐって撫でる。細い体の線をたどる。
 俺が欲すると、彼はけして断らない。
 まるで罰を受け入れるように、俺を受け入れる。
「はぁ……、はぁ……っ」
 苦しそうに荒い呼吸をつく。
 青白い体が赤くなっていくのを見て、俺は興奮して胸元に口付ける。
 この皮膚の隔たりが忌々しい。皮膚の下に潜って、直接心を慰めてやりたい。
 それが俺の欲情の動機だ。
 俺の慰めは、彼の罰。
 いくら体を重ねても不毛なだけなのに。
「あ、あっ、もうっ、もう……っ」
「は、ヒョンだって元気じゃん」
「うっ、……疲れてるせいだ」
「なるほど」
「そんなことより、はや、く」
 なんてけなげな人なんだろう。
 自分から脚を開く年上の男に、俺はいたく感激した。
 興奮して頭がバカになると、俺のやることがこの人の罰になろうと、じゃあこの人の罪はなんなんだと思うことも、どうでもよくなる。
 ただ動物みたいに腰を振って、射精したい。
 そう思って、彼の尻の穴に指を入れて、受け入れる準備をさせる。多少緩んだところで、持ってきたコンドームを自身につけて、挿入を開始する。
「うぅっ、あ、あーっ」
 俺が腰を振っている間、感極まって彼はすすり泣く。
 男同士の性交で、こんなに感じる彼に最初は驚いた。
 過去に何があったかなんて、聞きたくもない。
 俺も慣れた。少なくとも、ヒョンとのセックスは、非常に気持ちが良い。
「はぁ、あっ、あっ、んっ、あんっ、あぁつ」
 泣きながら苦しそうに喘いで、しだいに切羽詰まった声色になっていく。
 俺も二度目だというのに、すぐに射精したかった。
「ヒョン、ヒョンっ」
「あぁ……っ、あぁっ、あーっ」
 彼は射精を伴わない絶頂を極め、泣きじゃくった。
 引きつけを起こすんじゃないかと、毎回心配になる。
 長い絶頂の間に、俺はぎゅうぎゅうと締め付けられ、促されるように射精した。
「はぁ……っ」
 俺は疲れきった体でヒョンの上に覆いかぶさったが、彼はまだイッている最中で、快楽をじゃましないようにそっと抱きしめた。

 最低限の片付けだけして、泣きつかれたようにヤン・ジョンホは眠ってしまった。
 俺はその横で、まだ煙草を吸っていた。
 彼は寝ているとき、少年のような幼い顔つきになる。
 そして毎回、何の夢を見ているのかうなされる。
「俺が……なければ良かった……」
 何か寝言を言ったので耳を傾けたが、それ以上は健やかな寝息を立てているだけだった。
 俺は数年前と変わらず、彼のことを何も知らない。
 何回寝たからといって、親密になるわけじゃない。
 相変わらず、可哀想なヤン・ジョンホに違いはなくて。
 俺じゃあんたを救えないとつきつけられるようなのに、この関係をやめられない。


おしまい

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