この数日は何しろ大変だった。
管轄内で発生した空き巣グループを一斉逮捕したり、刃物を振り回す男が大通りに現れたのを大捕物したり、他にもいろいろと、およそ小さな街でありえないくらい事件が連続したのだ。
しかも今日は朝から土砂降りで、傘を差していても服が湿ってしまっている。
だから寝不足と疲労がたたって、正直歩くのがやっとの状態だった。
ふらふらとようやくマンションにたどり着いた。
このまま寝たいが、シャワーを浴びなければ、と葛藤しながら無意識にリビングのソファに吸い寄せられ、横になってしまった。
目を閉じかけたところへ、人影が視界の端に映ったので固まった。
不法侵入者?
「誰だ!?」
声を上げてがばっと起き上がると、人影はびくりともせず、静かにこちらに近づいてきた。
「そんなに大声を出したら驚くじゃないですか」
ちっとも驚いていない声色は、よく聞き覚えのあるものだった。
「ドンシクさん!?」
驚いたのはこっちのほうだ。何故僕の家にドンシクさんがいるんだ!?
僕はソファから立ち上がった。
「何故ここに!?」
夢でも見ているのかと思った。
「玄関が開いてたんですよ。不用心ですね」
「そんなはずは……」
そんなはずがあるはずない。どうやって入ったんだか知らないが、以前僕がドンシクさんの家に不法侵入していた仕返しなのだろうかと疑う。
「だとしても、何しにいらしたんですか?」
「会いに来ました。それだけじゃいけない?」
「えっ」
タメ口で言われて、僕は注意しようかと思ったが、言葉がうまく出てこなかった。
久しぶりに会ったドンシクさんの容姿に見とれてしまったからだ。
父が逮捕されてからの彼は、以前のような濃厚な影はなくなったが、どこか寂しげな妖艶さは健在で、それどころか増しているような気がした。少し髪が伸びているせいかもしれない。
見とれていたのはほんの数秒だったが、その間にドンシクさんはさらに僕の方へ近づいてきた。
「というか、あなたが俺に会いたいだろうと思って」
「は?」
図星を突かれた僕はとっさに感じの悪い聞き返し方をしてしまった。
確かに僕の脳裏にはいつもドンシクさんの幻が居た。
僕の人生を大きく変えた特別な人だ。
仕事をしている時、彼だったらどうするだろうか、どんなふうに対応するだろうか、指標のような存在になっている。
それと同時に、僕を後悔の海に沈める存在でもあった。
所長の命日以来、また会いたいような、二度と会いたくないような、そんなもやもやを抱えていたのも事実だ。
それに、もうひとつ、言えない秘密がある。
頭に浮かんだそれを振り払うように、僕は聞いた。
「何を根拠にそんなことを言うんですか」
責めるような口調で、僕は聞き返してしまった。
「根拠? そうだねぇ」
彼の薄い唇は弧を描いた。
「触ってみればわかるんじゃない?」
「は??」
再び感じの悪い聞き返し方をしてしまった。
だが、変なことを言い出すドンシクさんが悪い。
「何言ってるんですか、さっきから。勝手に人のうちに入り込んで、それも人のせいにして、変なこと言い出して……。前々から変わった人だとは思っていましたが、今日はとても変ですよ?」
そう言い返すと、彼は鼻先まで近づいてきた。
そして片手で僕の肩に触れようとしたので、僕は後ずさった。
「ドンシクさん、いったい何を」
「あなたは、俺を人間だと思ってるの?」
「え……」
ぎょっとした。
まさか、人間じゃない?
人間じゃないなら何なんだ?
「何だと思います?」
心の中を読まれたように続けられて、僕は背筋がぞっとした。
たしかにこの人は、人ならざる者に見えるところがある。
美しすぎる、というのが正しいのかわからないが、魅入られてしまうところは、怪異のようにも思える。けど、まさかそんな、現実離れしたことがありえるのか。
「わ……、わかりません」
「わからないなら、触れてみればいいじゃないですか。そう、こんなふうに」
「あっ」
ドンシクさんが手を伸ばした。
僕はもう一歩後ずさろうとしたが、後ろにはソファがあってそれ以上動けなかった。
ドンシクさんの手は、僕の方に触れ、撫でるように胸のあたりまで降りてきた。
そして急に軽く突き飛ばされた。
「わっ」
バランスを崩した僕は、ソファの上に座り込むように崩れ落ちた。
「なにするんですか!」
「いちいち言わないとわかりませんか?」
ドンシクさんは、片膝をついてソファに乗り上げた。
背中を丸めて、僕の首の付け根に顔を寄せる。
噛まれる!? 怪異は怪異でも、吸血鬼だった!?
目をぎゅっと瞑って衝撃に構えると、鋭い痛みの代わりに、柔らかく湿った感覚がやってきた。
こ、これは、くちづけ?
僕は動揺した。
「あ、だめです。そんなふうにしたら」
「どうなってしまうんですか」
「そ、それは……」
間近すぎて表情は見えないのに、ドンシクさんが笑ったのがわかった。
いきなり素早く股間を握られた。
「あっ」
僕は恥ずかしさで顔が熱くなった。
くちづけられた瞬間、身体的に反応してしまっていたからだ。
同じ男だからわかってしまうだろう。少し、熱を持って固くなっていることを。
「やめてください!」
僕は叫んだ。
「本当にやめていいんですか? ずっとこうしたかったんでしょう?」
否定することができなかった。
勘づかれてしまっていたんだ。
時々、この人の姿を思い浮かべて、自慰をしていたこと。
固まって、二の句が継げずにいる僕を、ドンシクさんは慰めるように言う。
「大丈夫ですよ。俺は、あなたを受け入れます」
とても慈悲深い声色で耳元に囁かれた。
「それどころか」
吸血鬼じゃない。悪魔だと思った。
悪魔が僕を誘惑している。
「あなたを食い尽くしてしまうかもしれませんよ?」
僕はあっさりと誘惑に負けた。
ドンシクさんの胸ぐらをつかんで、正面からくちづけた。
くちづけなんて今までしたことなかったから、かなり無茶苦茶だった。ドンシクさんの薄い唇を吸って、軽く開いていた口の中に舌を突っ込んで、口の中を好き勝手に舐めた。しばらくすると、ドンシクさんの舌が応えてくれて、僕の舌に絡んで来た。お互いに求め合ううように、すりすり粘膜を擦り合う。
くちづけがこんなに気持ち良いなんて知らなかった。腰のあたりから砕けそうに甘い。
すっかり夢中になっていると、ドンシクさんが唇を離した。
「あ」
名残惜しく声が出てしまった。
ドンシクさんは薄っすら微笑みながら、僕の足元に屈み込む。
「なにす……」
器用にベルトをはずされた。下着の中に手をつっこまれ、僕のペニスを取り出すと、ためらいもなく口の中に含んだ。
「ひっ! 汚いです! シャワーを浴びてないのに……!」
青ざめた僕に、ドンシクさんはペニスを咥えたまま答えた。
「ほのほうはほうふんひまふ(その方が興奮します)」
とんでもない答えに、僕はめまいがした。
しかしすぐにそれどころじゃなくなってしまう。ドンシクさんの舌でペニスを舐め回され、いっそうそこに血液が集まり、限界まで勃起した。すると今度は唇で扱き始めた。上下する頭を見下ろして、僕の口からは思わず小さな声が漏れてしまう。
「はっ……、ぁ、はぁ……っ」
こんな快感は味わったことがない。
自慰とは比べ物にならない。
「……んっ、……はぁ……、あぁ……」
ドンシクさんは喉の奥まで僕を受け入れ、強く吸う。
「……も、だめですっ、……出て、しまいますっ!」
危機感を訴えると、ドンシクさんはぴたりと止まってくれた。
助かった。
危うくドンシクさんの口の中に射精してしまうところだった。
ドンシクさんはペニスから口を離し、立ち上がると、てきぱきと服を脱ぎだした。
「わっ」
目の前の細い腰に目が釘付けになってしまった。
ドンシクさんは堂々と全裸になり、僕の腰の上に跨ってきた。
「えっ」
僕は今更ながらに驚いた。
「だ、男性同士はそんな簡単に性交出来ないと……」
興味があって調べたから知っている。
するとドンシクさんはそんな拙い知識を一蹴するように言った。
「準備しておきましたから」
そう言って、指で下半身を開いて見せた。
とろり、と雫が落ちる。それはきっとローションというやつなのだろう。
「せめて避妊具を」
「やっぱり。そう言うと思った」
脱ぎ捨てた服のポケットから避妊具を取り出し、僕のペニスにするすると嵌めた。
経験値の違いすぎる様を見せつけられ、いよいよ僕は黙った。
ドンシクさんはそのまま僕のペニスの上に、腰を落とした。
「ん、ふ……っ」
切ない声を出しながら、根元まで沈めていく。
熱く狭い沼にずぶずぶと落ちていくような快感で頭がいっぱいになる。
「う、すご、いっ」
「はぁ、入りましたね。あなたが動きますか? それとも俺が……」
「僕がやります!」
食い気味に答えて、ドンシクさんの細腰を両手で掴んだ。
抑えつけて、下から突き上げる。
「あっ、あぁっ、いきなりっ、はげし……っ」
ようやくドンシクさんの戸惑った声が聞けて、僕は溜飲が下がった。
遮二無二腰を突き上げる。体力なら負ける気がしない。
「んんっ、あっ、あっ、すご……っ、あぁっ」
ドンシクさんが喉を晒してのけぞったので、僕はそこへむしゃぶりついた。
「あんっ、奥っ、おくまで来てるっ、いぃっ」
歓喜の声を上げて、ドンシクさんは腰を揺する。
さっきまでは取って食われる身だったが、今は食い合っている。
「はぁっ、はぁっ、ドンシクさん、ドンシクさん……っ!」
そうだ、僕はずっとこうしたかった。
あなたを蹂躙して、言葉にならない気持ちをぶつけたかった。
「あっ、イクっ、もうイクぅっ」
ドンシクさんは音を上げて、体を硬直させた。
僕も限界だった。
けれど中に射精するわけには行かない。一度抜いて、せめて外に……。
そう思ったが、ドンシクさんは許さなかった。
「中に、ナカに出してくださっ、あぁぁっ、あぁっ」
絶頂を極めるドンシクさんのナカの締め付けに耐えられなくて、僕はそのまま射精してしまった。
「うぅっ」
脳のてっぺんが痺れる。
ものすごい快楽が全身を支配する。
そしてとろけるように、力が抜けた。
「……はぁっ」
ドンシクさんはまだ絶頂の渦中にいた。
意識が遠のいているように見えて、何度か痙攣するので、僕は不安になる。
「大丈夫、ですか?」
「あ、動かないで……、イッてる、からぁ……」
僕は言われたまま動かずにじっと待った。
苦しそうに長い快楽を享受するドンシクさんの表情がたまらなくて、射精したばっかりだというのに、すぐに復活しそうになっていた。
「あぁ……、うん、大丈夫です。もう」
ドンシクさんはそう言って、僕の体にもたれかかってきた。その重みが嬉しい。
うっとり余韻を味わっていると、ドンシクさんは言った。
「次は、ちゃんとベッドでしましょうか」
「えっ」
僕は驚いた。
「も、もう、無理ですっ」
「何言ってるの、これからでしょう?」
鼻先を擦り合わせて微笑まれ、僕は困惑した。
骨の髄まで食い尽くされる、と本気で恐れを感じた。
はっと目が覚めた。
こわごわとまぶたを開けると、馴染のない室内が見えた。
そうだ、ここはドンシクさんの家だ。
ある日突然招待され、逡巡した末に訪ねてきたのだった。
しかしここ数日の激務がたたって、いつのまにかソファでうとうとしてしまったらしい。
居眠りするだけで大失態だが、さらになんて夢を見てしまったんだ。
恥ずかしくて顔を上げられない。
「大丈夫ですか?」
ドンシクさんに声をかけられて心臓が跳ねあがる。
彼は傍らに椅子を置いて座っていた。
「よほど怖い夢を見たんですね。うなされてましたよ」
「そっ」
それだけですか?と掠れた声で僕はたずねた。
すると、何かを察したのか、ドンシクさんはにやりと笑って聞き返した。
「あれ? いやらしい夢でした?」
「なっ……!」
「冗談です。まさかね」
深く追求せず、彼は笑って流したのでほっとした。
「でも、ここでうたた寝するほどくつろいでくれるようになったなんて、嬉しいですね」
「嬉しいですか」
「嬉しいですよ」
ドンシクさんは僕に言い聞かせるように繰り返した。
僕はさっきまでの夢の内容も忘れて、胸のあたりがあたたかくなった。
そして無意識に、彼に向かって手を伸ばした。
「何か?」
聞き返されて、僕は首を横にふって手を下ろした。
「何でもありません」
「そうですか。食事にしますね。たいしたもんはありませんが」
「とんでもない。ありがとうございます」
僕は今、彼に触れようとしたのだ。
出来なかったけれど。
手を伸ばした爪の先の、1ミリ先にいるあなた。
本当に触れたらどうなってしまうのだろう。
いつか僕は本当に―――……
おしまい