僕らは何も知らなかった

 目が醒めたらベッドの上だった。
 というのは本当にあるのだな、と思った。
 交通事故に遭ったそうだ。生きているのが不思議なくらいだと言われた。
 事故から三日くらいたってやっと意識が戻ったのだという。
 幸い、身体的には軽症で済んだが、脳に後遺症が残った。
 自分についての記憶が抜け落ちてしまったのだった。

 見舞いに来たのは一人だけだった。
 すらりとした体型の、整った顔立ちの男。
 俺とどんな関係かとたずねたら、彼はさんざん口ごもった挙げ句、「恋人」だと告げた。
 俺はあまり驚かなかった。
 そういう可能性も考えていたからだ。
 それくらい、彼は俺に甲斐甲斐しく接してくれた。
 車椅子を押してもらい、病院の庭を散歩しながらたずねた。
「俺たちはいつからつきあってるんだ?」
 彼は穏やかな声で答えた。
「仕事で出会って、しばらくしてからですね。僕らは最初から気が合いました」
「でも、どっちからとかあるだろう?」
「そうですね。恥ずかしいけど、僕からです」
 彼は本当に恥ずかしそうに笑いながら言った。
「なんか変な気分だな。自分のことなのに、教えてもらうのは」
 俺も笑った。
 交通事故に合って記憶喪失だというのに、不幸だという気持ちは全然しない。
 それはきっと、彼がそばにいるからだろうと思った。
 キル・スヒョン。米国で育った彼は、英語名をジェームスという。
 俺たちは二人とも警察官で、同僚だったという。
 ハンサムなのはもちろん、好ましい顔立ちだな、と思った。
 恋人ならそう思うのは当たり前かもしれない。
 俺は、一度目のことは忘れてしまったけれど、二度目の恋に落ちているのかなと思った。
 黙って遠くを見つめている彼に、話しかけようとして言葉に詰まった。
「ええと……俺は、その、あんたのこと何て呼んでたんだ?」
「あぁ、ジェームスと呼んでいましたよ」
「ジェームス」
 口の中で転がしてみる。なるほど、収まりが良い気がした。
「じゃあ、ジェームスは俺のことをなんて呼んでたんだ?」
 すると、ジェームスは虚を突かれたように固まった。
「そう……ですね……。オ刑事とか……オ・デヨンさん、とか……」
「随分他人行儀だな」
「僕のほうが年下ですからね」
「そうか。なるほど」
 俺が納得して笑うと、ジェームスは俺の髪に鼻先を埋めて後ろから抱きしめてきた。
「どうした?」
「生きてくれてるのが本当に嬉しくなって……生きてるんだって思って……」
「ははは、今更だな」
 笑う俺をジェームスはしがみつくように抱きしめていた。
 風が冷たく感じるまで俺たちはそうしていた。

 病院を出て、二人で暮らしていたというマンションに戻ることになった。
 俺はもう普通に歩けるようになっていたし、見た目にはなんともない。
 ただ時々頭痛がするので、経過観察となっていた。
 頭痛が起きる前触れのようにぼんやりと人影が見える。
 小柄な女性の影だ。
 よく知っているような、懐かしいような感覚を覚える。
 そして、割れるように頭が痛くなるのだ。
 俺が痛みに苦しんでいると、ジェームスはひどく心配してくれた。
「仕事のことは心配しないでいいから、今はゆっくりしてろ」
 と何度も言っていた。
 俺は様々な事件をジェームスと一緒に解決していた時期もあったらしい。
 だが、最近は、捜査でやり過ぎて、閑職に飛ばされていたという。
「離島で駐在してたときもあったんですよ」
「へぇ、それは優雅そうだなぁ」
「僕が会いに行くのにかなり苦労しました」
「そうか。来てくれてたのか」
「あなたがソウルに来る方が多かったですけどね」
「ふぅん」
 ジェームスはことあるごとに、俺の失った過去の話をしてくれた。
 それは悲しい事件の一部始終であったり、くだらない雑談の思い出だったりした。
 ジェームスの記憶力はとても良くて、ほんの些細なことまで覚えているようだった。
 記憶の欠片をひとつひとつ渡してもらう作業のようだと思った。
 俺はそれらをなるべく素直に受け留めるようにした。
「さぁ、もうこんな時間です。喋りすぎましたね。もう寝ましょう」
 そう言ってジェームスは語っていた事件の話をしめくくった。
 寝室の広いベッドに俺を案内して、彼はリビングへ戻っていく。
「どこへ行くんだ?」
「ソファを広げるとベッドになるんです。そこで寝られるんですよ」
「そういうことじゃなくて。恋人同士なんだから一緒に寝てもいいだろ?」
「うーん」
 ジェームスは困ったように眉をひそめた。
「あなたはまだ病み上がりです。それに、恋人同士という記憶も戻っていません。万が一、僕が見知らぬ赤の他人だったとしたらどうしますか?」
「えっ」
 考えてもみなかった。
 でも、記憶がないとはいえ、ジェームスの存在は俺にはしっくりくる。
 見知らぬ他人なわけはないと思っていた。
「あなたの記憶が戻るまで、一緒に寝たりはしません」
 きっぱり言い切るので、俺はなんだか寂しくなった。
「それはいいけど、少しくらいは、その、スキンシップとかあったほうがいいんじゃないか?」
「スキンシップ」
 それは食べ物ですか?、とでも言いたげなジェームスに、俺は言った。
「有り体に言うと、俺はジェームスにハグしたり、キスしたりしたいよ」
「ハグとかキス」
 それは本当に食べ物ですか?、という調子で彼は繰り返す。
「もちろん、ジェームスが嫌じゃなかったら、だけど」
 慌てて付け足すと、ジェームスも急に慌てだした。
「嫌なはずがありません」
「そうか? じゃあ、おやすみのハグとキスはしてもいいか?」
「もちろん」
 ジェームスは緊張の面持ちで気をつけの姿勢で目を閉じた。
 俺は吹き出しそうになってしまった。可笑しいし、何より可愛い。
 きっと俺はこの男のこういうところが好きだったんだろうなと思いながら、そっと抱きしめて、頬に軽くキスをした。
「はい、終わり。おやすみ」
「お、おやすみなさい」
 彼は頬に手を当てて、真っ赤になって立ち尽くしていた。
 俺はあくびをして寝室に戻り、着替えて横になった。
 その日からおはようとおやすみのハグとキスは必ずするようになった。
 そのたびにジェームスのリアクションがかわいいので、俺は新しい恋愛をしているみたいに浮かれた気分になってきていた。
 そんなある日、部屋に飾られている風景画を見て、たずねた。
「カナダに行きたいと言ったのはどっちだ?」
「どっちだったかな」
 記憶力の良いジェームスが珍しく曖昧に微笑んだ。
「でも、僕の故郷はアメリカでしょう。二人とも、関係のない土地で、新しい人生を始めるには良いと思ったんですよ」
 カナダに行けば、法律上男同士でも結婚が出来る。
 それを目指していたと彼は言った。
 俺はその理由に納得した。そして、申し訳ないとも思った。
 記憶を失くしたことで、その計画が頓挫してしまっているのだ。
 ところが、
「結婚はともかく、カナダへは行きましょう」
 と、ジェームスが言ったので驚いた。
「え」
「その方が良い。あなたの病気のためにも」
 不思議と急いでいた。
 少し不安にはなったが、ジェームスは、相変わらず甲斐甲斐しく俺の面倒を見てくれる。
 もちろん朝から夕方までは仕事に出かけるが、早々に帰ってきて、俺との対話の時間を作ってくれる。それが記憶を取り戻すのに一番良い方法だと思っているようだ。
 週末ともなれば、一緒に外へ散歩に出かけたり、家で料理を作ってくれたりする。
 今週は一番近くの海岸へ行った。
 季節外れの砂浜は、ぽつんぽつんと人がいて、みんなが海の方向を眺めていた。
 俺たちも砂浜に座り込んで、波を眺めた。
「なかなか、こういうのもロマンチックでいいな」
 そう言うと、ジェームスは目を伏せて笑った。
 その表情が色っぽく見えたので、俺は吸い込まれるように顔を近づけた。
「?」
 不思議そうにジェームスがこちらを見る。
 うまい具合に唇と唇が重なりそうになって、このまま……と思ったところを手のひらで塞がれた。
「うぐ」
「ちょっと待て、何をする気だ」
「何ってキ……」
「こんな公衆の面前で!?」
 ジェームスは目を見開いて驚き、口を塞いでいる手のひらで、俺の顔の向きを変えさせた。
「じゃあ、人のいないところでならいいか?」
「……それも、スキンシップのうちなんですか?」
「うーん、もっと深いやつ?」
「却下で」
「なんで。俺たち恋人同士なんだろ? カナダに行ったら結婚するんだろ?」
「そうですが……全て忘れてしまった今、あなたは本当に僕をそういうふうに捉えられますか?」
 問いかけるジェームスに、俺は彼が根本的に勘違いをしていることに気づいた。
「あぁそうか、わかってないのか」
「え?」
 俺は一呼吸置いて、言う。
「消えた記憶は関係ない。今、俺はおまえに惚れてるんだ」
 予想通り、ジェームスは言葉もなく固まってしまった。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫です。ちょっと、衝撃が大きすぎて」
「何だよ、大げさだなぁ」
「いったいどうしてそんな……」
「ここで俺に愛を囁けって言いたいのか? それこそ人前じゃないところのほうが良くないか?」
 そう言うと、ジェームスは砂を払いながら立ち上がった。
「車に戻りましょう」
「わかった」
 俺も立ち上がった。結構砂まみれで、靴の中まで入ってしまっていた。それを払いながら車を停めていたところまで戻った。
 車の中に入って、運転席に座ったジェームスに俺は言った。
「もう一度、口説き直せっていうことか?」
「さすがにそれは不要です」
「じゃあ……」
 俺はもう一度顔を寄せた。
 ジェームスは目を瞑らなかった。俺の挙動を最後まで確かめるような目つきで見ていたが、無視して唇を重ねた。その乾いた唇を何度か唇で吸って、自然と開いた口の中に舌を差し込んだ。舌を絡め、すりすり擦り合わせると、おずおずとジェームスも応えてくれ始めた。上顎をくすぐると、びくりと背中を揺らせて感じているのがわかった。俺はジェームスの口の中を深く蹂躙し、味わった。ずっとこうしたかったんだ。
 ひとしきり口づけあって、満足して唾液の糸を引きながら離れ、ため息をついた。
「帰ろうか」
「あぁ」
 ジェームスは毅然とした態度で車を運転していたが、俺はそれどころじゃなかった。
 早く隣にいる男を抱きたくてたまらなかった。
 なんでもない顔をして、窓の外を眺めながら、頭の中はそのことでいっぱいだった。
 マンションに着いて、エレベーターに乗って、部屋に入るなり、もう一度キスをした。
 キスをしながらお互いに服を脱がせ合い、寝室までもつれ合いながら移動した。ベッドの上に体を投げ込んだときには、二人とも素っ裸だった。
 裸になったジェームスは想像通り魅力的で、俺は夢中になってがっついた。
「……あ、……あっ」
 あちこちを撫でたり、舐めたりすると、ジェームスは控えめな声で喘いだ。それがまた俺を激しく燃え上がらせた。
 ゆるく勃ちあがっているペニスを扱いたが、それ以上は固くならなかったので心配していると、彼は恥ずかしそうに言う。
「服用している薬のせいなんです」
「薬!?」
「気にしないでください。それより」
 ジェームスは俺のペニスを掴んで、自分の尻の穴に導こうとした。
「大丈夫か?」
「早く、欲しい……っ」
 そう言うので、俺は恐る恐る彼の開いた脚の間に体を埋めた。
「あぁ、うっ」
 ジェームスは一瞬苦しそうにしたが、案外平気な様子で俺を受け入れた。
「あ……動いて、いい、からっ」
「本当か?」
「うん……っ」
 ジェームスが子どものように甘えてくるので、俺は嬉しくなって腰を動かし始めた。
「あっ、あぁっ、んっ、はぁっ、あっ」
 俺が奥を突くたびに、ジェームスはこらえきれない声を漏らして喘いだ。
 ジェームスの中は熱くて狭くて、たとえようもなく気持ちが良い。
「あっ、あっ、い、イク、だめ、イクぅ……!」
 彼もまた早くも感極まっていた。
「ジェームス、俺、もっ、出るっ」
 搾り取られるように、俺も射精した。
 しがみついてくるジェームスを抱きしめながら、俺は記憶が戻らなくても充分幸せだなどと考えていた。

 カナダに行く書類を整えてきた、とジェームスが言っていた。
 俺は朝から頭痛がして、ベッドに横になっていた。
「俺は何もしなくていいのか?」
「いいから任せておいてください。こういう類のことは得意なんです」
「そうか、頼もしいな」
 俺はジェームスの腕に手を伸ばして引き寄せた。
「キスしてくれたら、頭痛いの治るかも」
 そう言うと、ジェームスは吹き出した。
「随分甘えん坊になりましたね」
 そう言いながらも、軽くキスを落としてくれた。
 変わったのはジェームスもだ。前はいくらか小難しい顔をしていることが多かったが、あの日から表情が柔らかくなった。
 嬉しい気持ちとは逆に、頭痛が日に日にひどくなっていた。痛み止めも効かない。
 痛くない時間が、だんだんと短くなっている。
 病院に行っているが、原因不明だ。
 病院からの帰り道、俺は薬局までの道をぼんやり歩いていた。
「オ・デヨン! オ・デヨンじゃないか?」
 向こうから歩いてきた男に、いきなり名前を呼ばれて驚いた。
「……?」
「そんなに睨むなよ。最近顔を見てなかったな。かわいい奥さんは元気か? たまには連絡よこせよ、じゃあな」
 一方的に喋って、勝手に過ぎ去って行った。
 俺は愕然とした。
 かわいい奥さん? って言ったか? ジェームスのことじゃ、ないよな。
 あれはきっと昔からの知り合いだ。記憶を失う前の俺を知っている人間だ。
 混乱していると、またあの人影が網膜に浮かんだ。
 痛みに身構える。
 今度は幻聴まで聞こえてきた。
 ーーーーもう探してくれないの?
 もう  探して   くれ    な   い       の       ?
 罪悪感がどっと押し寄せて胸が張り裂けそうになる。
 俺は誰を探していた? 必死に、探していたはずだ。
 誰を? 誰だ?
 あれは誰だ?????

 あとから聞いたところによると、俺は道端で倒れていたらしい。
 近所の店の人が救急車を呼んでくれたという。
 幸い、手に処方箋を持っていたのでかかりつけの病院に運ばれた。
 再び数日間、眠りっぱなしだったらしい。
 目が醒めたときには、俺は、すべてを思い出していた。

 家で待っていると、慌てた様子でジェームスが帰ってきた。
「オ・デヨンさん…!」
 俺は寝室にかけてあるカナダの絵を眺めて立っていた。
 ジェームスは俺の姿を見つけて、ほっと息をつく。
「病院を出て行ったっていうから……心配して……何で一人で……」
 責める口調にならないよう気を使って問いただそうとしていた。
 俺は振り向いて言った。
「思い出した」
「……え?」
「全部、思い出したんだ」
 ジェームスの顔色がみるみるうちに青ざめていく。
 俺は、冷ややかな表情で彼が床に崩れ落ちる様子を見ていた。
「全部嘘だったな」
「…………」
 彼は何か言おうとしては言葉を飲み込んだ。
 そうだろう、何も言えるはずがない。
「何で、こんな嘘をついたんだ?」
「それは……」
「俺たちはただの同僚だった。カナダで結婚?どうしてそうなるんだ」
 ジェームスはその整った顔に苦痛をにじませた。
「僕が……あなたを幸せにしてやりたかったんだ……」
 俺は鼻で笑った。
「はっ。よくもそんなことが言えるな」
「…………」
 またジェームスは黙ってしまった。
「哀れな俺に同情してってことか。余計なお世話だ。俺は……おかげで俺は……」
 涙が出てきた。
「おまえを愛してしまったじゃないか」
 え、と聞き返そうとしたジェームスの唇を、俺の唇で塞いだ。
 驚くジェームスを無視して、舌を入れて激しいキスをする。
 舌を吸って、口の中を舐め回して、唾液を送り込んだ。
 ジェームスはされるがままになっていた。
 ひとしきり彼の口腔を貪ると、俺は唇を離した。
「……なん、で……」
 今度たずねたのはジェームスのほうだった。
「俺は、妻だけを愛しているって思いたかったのに」
 涙が出てきた。
 同僚だったときから、ジェームスには何故か惹かれていた。
 複雑な過去を抱え、事件の結果で苦しむ彼を、何度抱きしめたいと思ったか。
 でもそんなものは幻だと思いたかった。
「そんな……まさか……」
 ジェームスは放心したように言う。
「俺も知らなかったよ。おまえがこんな大胆なことをするほど、俺に執着していたとは」
 いや、俺はいつかこいつが何かやらかすんじゃないかと思っていたはずだ。
 忘れていただけだ。
 全部忘れて……。
「まだ、カナダに行きたいか?」
 俺は尋ねた。
「いや、それはもういいです」
 ジェームスは力なく答えた。彼にとってカナダでの生活は、完全に過去を捨てるための希望だったのだろう。残念だが、過去は捨てられない。俺たちはそれらを背負い、抱えて、生きていくしかないのだ。
「だよな」
 俺はそっとジェームスを抱きしめた。
「でも、そんな遠くへ行かなくとも、俺はおまえと一緒にいるよ」
 腕の中で彼は身動ぎをする。
「いいんですか……? あなたは、それで……」
「おまえが俺を幸せにしてくれるんだろう?」
 そう尋ねると、ジェームスは照れたようにはにかんだ。
「えぇ、そのつもりです」
 ジェームスも俺の背中に手を回してきた。
 歪んだ形の俺たち二人は、ちょうど重なるようにできているんだろう。
 俺たちはどちらからともなく再び唇をそっと合わせた。

おしまい

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