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改札で弾かれて、峯村一裕は思わず後ずさった。ICカードのチャージが足りなかったようだ。
「わり」
先を歩いていた相方に向かって声をかけたが、声が届かなかったようで立ち止まらない。仕方なく峯村は踵を返し、切符売り場へ急いだ。カードを自販機に突っ込む。三千円をチャージする。移動は常に電車なのだから非効率なのだが、ついちびちびとしか使え出来ないのは、売れない芸人の性だ。
戻ってきたカードを財布にしまって再び改札に向かおうとすると、道を塞がれた。
「もー、何やってんのぉ?」
相方の北川正芳だった。かなり色を抜いた派手な髪、蛍光色のTシャツを着たストリート系ファッション、どこにいても目立つ格好をしている。そして結構いかつい顔を思い切り顰めている。
「結局同じになるんだからさー、限度額までチャージすればいいじゃん。いっつも改札で引っかかるんだもん」
イライラしている。
「んな怒んなよ。いいだろ」
「よーくーなーいー」
ただでさえ目立つ格好で大声を出すので恥ずかしい。彼を体ごと腕で押しのけて改札を抜け、ホームまで早足で歩く。
「もー、峯村さんたらーっ」
振り向かなくても追いかけてくるのはわかる。無視して電車を待つ。すぐに入ってきた山手線に乗り込んだ。学校が終わったくらいの時間のせいか車内は混んでいた。離れて立っていると誰も彼らが連れ合いだとは思わないだろう。それくらい、北川とは正反対に峯村は地味だ。
人々の隙間から、北川はじっと峯村の髪を睨んでいる。無視を続けるのはいつものことだ。何も感じない。
山手線はすぐに目的地についた。無言で劇場へ向かう。次の仕事まで余裕のないスケジュール。仕事がある時は重なるけれど、ないときは全くない、波のある生活ももう六年目になる。有難いことに、バイトをしなくても良い程度には仕事がある。彼らはティースプーンという、どこか可愛らしい響きの名前のコンビを組んでいる。特に意味はない。必ず聞かれるので無理矢理意味をつけたこともあったけれど、本当に意味が無いのだった。
「おはようございまーす」
「ざいまーっす」
いつの間にか追いついてきた北川と並んで楽屋に入った。中には芸人仲間がたくさんいて、鞄を置きながら声をかけたりかけあったりする。すると次のライブ担当の作家がやって来て、仕事の話が始まった。軽いリハーサルの後に客入れをして本番。若手がネタを疲労する場として定期的に行われているライブなので事務的に進行する。MCも気心の知れた一年先輩のコンビだから安心して動ける。
出演者が順番に舞台へ出て行く度に客席から歓声を上がる。彼らも名前を呼ばれて出番となった。
「どもー、ティースプーンです。えー、僕は峯村といいます」
「カラフルなほうが北川でーす」
「カラフルって何だよ」
「だってぇ。そっちはなんか辛気臭い色合いじゃん。ねー」
「失礼だなおまえ」
「とにかく名前だけでも覚えて帰って欲しいよねー!」
喋りながら意外に舞台から客席の様子はよく見える。いつも見る顔が前のほうに座っていた。よく劇場付近で待っていて差し入れやファンレターをくれる子たちだ。そういう子たちは有り難いことに何人かいるけれど油断してはいけない。
お笑い好きで劇場まで足を運ぶファンは若い女の子が多い。彼女たちは移り気で、いくつもの顔を持っている。よく来てくれるからといって俺たちだけのファンだというわけでもない。彼女たちだって色々な芸人が好きだろうし、彼女たちの都合もある。気に障ることがあれば光の速さで噂を回す。
特に北川は標的になりやすい。
更新するしないに関わらず、殆どの芸人は自分のブログを持っていて、閲覧数やコメントが人気のバロメーターとなっている。北川の場合は更新数も多く、コメント数もそれなりだが、悪辣なコメントも多い。いわゆる荒らされるというやつだ。さらに検索すれば、もっと酷いことが書かれている場所もあるらしい。
峯村はめったにブログを更新することもなく、ネットで自分たちの評判を探すこともない。無責任な情報を見ても何も得しないと思っているからだ。
人気商売というものはまるで幽霊を相手にしているみたいだ。ぼんやりと想像がつくけれど、実際どうしたら人気が上がり、こうしたら評判が良くなるかなんていうことは分からない。分かったらとっくに売れっ子になっているはずだ。
一見「チャラい」イメージのせいか、滑ることが多いせいか知らないけれど、北川は一部の女の子たちから攻撃を受けやすいことは確かだった。そのおかげで本人はよく情緒不安定に陥いることがある。
他の芸人との絡みでもよくイジられるネタになっている。
「どうした北川、またお前のブログ荒らされてるんだって?」
「ちょっと、そういうこと言わないでくださいよー。マジで傷つくんですからぁ」
自虐的な物言いで場を賑やかす。
出演者全員のネタが終わり、続くゲームコーナーもつつがなくこなしてライブは終了した。北川は楽屋で後輩と喋りこんでいたが、もう今夜は仕事がないので峯村は家に帰ることにした。
劇場の入っているビルの前に、女の子たちがたむろしている。出てくと一斉に視線が集まる。「なんだあいつか」という感じでいくつかの視線が外れ、数人の女子高生が駆け寄ってきた。
「お疲れ様です!」
「今日のトーク面白かったです」
「写真一緒に取ってもいいですかぁ?」
自分より十歳くらい年下の女の子たちの願望を叶えるために小さなカメラにおさまる。恥ずかしくてどうも上手く笑えないけれど、彼女たちは異常に喜んでくれる。
「ありがとうございましたー」
ぺこぺこ頭を下げる女の子たちを後にして歩き出したが、一人だけまだ何か言いたそうな子が後ろを着いてきていた。振り向くと、ギャルでもなくごく普通の制服姿の女子高生がいた。
「……なに?」
「あの!」
「あ、はい」
「早く北川さんを捨てた方がいいと思います。そうしないと峯村さんまで足を引っ張られていつまでたっても売れないと思います!」
「え?」
いきなり何を言われたのかわからなくて戸惑った。しかし彼女自身はは言いたいことを言って満足したようだった。ふぅっと大きく息をつくと、軽く会釈をして劇場の方へ駆け戻ってしまった。峯村はぽかんとして突っ立っていた。
捨てる? 俺が、北川を?
足を引っ張るって。なんなんだいったい。
混乱しつつ再び歩き出そうとしたところへ、また声をかけられた。
「峯村さん」
今度はまだ新人のピン芸人・小豆沢だった。名前とは正反対にでかい図体をしている彼は、誰が喋っても見上げてしまう。
「どこ行くんすか? ゲーセンっすか?」
「あれ、お前仕事?」
「や、芝居の稽古帰りっす。俺んちこっから近くて通りがかるんっすよ」
「へー、いいとこ住んでんなぁ」
「四人同居っすから」
「あー」
「で、ゲーセン行くんなら俺も行こうかな」
言われて、峯村は迷う。
「うーん、帰るつもりだったんだけど、どうしようかな」
しかし小豆沢の目的は寄り道ではなかったらしい。周囲にちらっと視線を走らせてから声をひそめて言う。
「さっきの、聞こえたんですけど」
「えっ? さっきのって、あぁ、あの女子高生の言ってたこと?」
そうです、と彼は力強く頷いた。
「ファンの子もあんなふうに言うんだったら、見抜かれてるんじゃないですか」
「ん、何を?」
「北川さんと峯村さんが不釣合いってことですよ。あの人もいいところはあるんだろうけど、ちぐはぐなコンビでお互いの才能を潰し合うんじゃもったいないっす」
「へ?」
再び峯村は目を丸くする。
どうやらさっきの女子高生もこの後輩も、彼らコンビの関係を否定したいようだ。そんなことを素面で、正面切って言われることは滅多にないだろう。外野からあれこれ言われる筋合いはないと思うので少しむっとした。それに気づいたのだろう、後輩ははっとして口をつぐんだ。
「……先輩方にだいぶ失礼なこと言っちゃったのはわかってます。けど、俺、謝りませんから。峯村さんの才能を買ってるからこそ言ったんです!」
真っ赤な顔で彼は言った。
「えーと」
峯村はうまく答えられず、頭を掻きながら俯いた。さっぱりわからないけれど、この熱くなっている後輩にそれを伝えたらがっかりさせてしまうだろう。
「それはありがとう。じゃ」
短くお礼を言って立ち去ることにした。
「あっ」
小豆沢はさらに何か言おうとしていたが聞こえない振りをした。
若いからな、と峯村は思う。あんなふうに気持ちを真っ直ぐぶつけられるのは若さゆえだ。しかし世をすねるタイプの峯村と違い、あの真っ直ぐさはどちらかというと北川の若い頃みたいだ。
駅までの道を俯きがちに歩きながら、峯村は相方と初めて会った時のことを思い出した。
彼らの出会いは今から六年前、まだ養成所に通っている期間だった。峯村は同時に大学にも籍を置いていた。そしてどちらにも真面目に通っていなかったのだ。
そもそも峯村の不登校癖は中学まで遡る。苛めをきっかけに、中二の半ばから殆ど通わなくなった。高校になり気分を一新してからはいくらかマシだが休みグセがついていて、後半はあまり登校しなかった。そして大学でも引きこもりに戻ってしまった。
このままじゃいい加減ダメ人間になると思い、お笑い芸人になるための養成所に入学したのは極端すぎるだろう。峯村には昔からそういうところがあって、追い詰められると急ハンドルを切ってしまうのだ。
しかし養成所も学校に違いなく、やはりずるずると休みがちになってしまうのだった。それでも今までより友人が出来たのは、どんな人種も包括する許容範囲が広いせいだろう。
“神藤・阿川”というコンビの阿川行尚と神藤寛貴とはバイトに誘われた縁で仲良くなった。彼らは高校の同級生同士だったが、二人だけで固まらずに他者に対して壁を作らない不思議なタイプだった。芸人を目指しているにしては自然体で構えたところがなかった。人懐こい猫みたいな神藤と、間の抜けた犬みたいな阿川。一人でつまらなそうに机に突っ伏していた峯村を、新しく見つけた玩具のように近寄ってきた。
「おまえ暇だろ? バイトやんない?」
前置きなしに言い出す神藤に、
「バカ、神藤、いきなりすぎんだろ」
と、阿川が止める。
「峯村くんだよね。俺たち、明日から三日間だけの短期バイトやるんだけど、直前で欠員が出ちゃって、一人探して来いって言われてるんだよ。もし空いてたら一緒にやってくんないかな。八時間で九千円、交通費支給」
「明日?」
峯村は確かに暇で、断る理由が思いつかなかったので引き受けた。仕事内容は神社での団子売りという意外に堅実なものだった。場所は東京都下の歴史ある氷川神社で御鎮座祭という祭りがある週末はかなりの人手で賑わうのだった。神社の正門前に店を構える団子屋は境内にも出店を出しているので、通常働いているパートの女性らは団子作りを担当し、彼らを含めた数人の臨時バイトが売り子と品出しを担当させられた。
「お、似合ってるじゃん」
エプロンと三角巾をつけた姿を神藤に笑われた。
「お前だって同じ格好してるくせに」
「そこのお兄ちゃんたち、お喋りしてないできびきび動きなさい」
注意されても隙あらば神藤は喋っていた。
休憩時間を一緒に取って良いとい言われたので店の中でコンビニのおにぎりを食べながら、峯村はしみじみと呟いた。
「神藤ってよく喋るね」
それを聞いた彼は憮然として言い返した。
「お前さぁ、曲がりなりにも芸人になりたいんでしょ? 喋りで食ってこうって人間が寡黙でどうするわけ? 俺の方が普段から魂を忘れない正統派でしょ」
「そりゃそうだけど」
「峯村こそ大人しいし別に面白いこと言わないし、いったいどういうつもりなの?」
痛いところを突かれた。
そろそろ真剣に考えなきゃいけないところだった。何も考えてなかった。コンビやトリオで入学した奴らとは違い、一人で入ってきた奴はもっとしっかり考えている。漠然と何とかなるだろうと思っていたのは峯村くらいだった。
「おい、困らせるなよ」
阿川が助け舟を出す。同級生でコンビを組むほどなのだからよっぽど仲が良い。不登校だった峯村には、彼らがとても出会いに恵まれてるように思えた。神藤の過剰なところを阿川がフォローして、阿川のぼんやりしたところを神藤が敏感に反応する。お互い足りないところを補うように出来ている。尤も本人たちは自覚をしていないと思うけれど。
「なんだよ阿川。俺が意地悪してるみたいに言うなよ。相談に乗ってやろうと思ってんじゃん」
神藤は口を尖らせて言った。
「ほら、俺らが聞いてやるからさぁ、お前はこれからどうしたいわけ?」
いつから相談になったのか、峯村はうろたえる。
「ほらほら、どうしたいんだよー?」
「あ、あい」
「あい?」
「相方が、欲しいっ」
言ってしまって自分で驚いた。神藤と阿川は顔を見合わせた。笑われるかな、と思ったが笑われなかった。
「へーぇ、じゃあそれ任せといてよ」
真顔で神藤は言った。
「えっ」
「な、阿川。って、やべ。おばちゃんたち睨んでるよー」
慌ててそれぞれの持場に戻った。それからは客が増えて忙しくなったので、その話はそれきりになった。
続きは翌週のことだった。朝、寝ているところを携帯電話の着信で起こされた。
「わりぃ、起こしちゃった?」
神藤だった。
「ん、何」
「お見合いすっからさ、新宿まで来てよ」
お見合いというからにはてっきり女の子を紹介してくれるのだと勘違いして、髪をしっかりセットして待ち合わせ場所へ行った。駅ビルの中にあるカフェで待っていたのは三人だった。神藤と阿川とそれから隣に派手な……男?
チャラい格好の男が緊張した面持ちで正面の席に座っていた。
「ども、北川正芳といいます」
「あ、ども。峯村です」
神藤が説明を始めた。
「こいつ、隣のクラスの奴なんだけど、先月相方に逃げられちゃったの。わざわざ北海道から出てきて一緒に住んでたのに、朝起きたらもぬけの空だったんだって。すごいっしょ。で、一人で困ってたから紹介しようと思ってさ。どう、この需要と供給」
まさか本当に相方を連れてくるとは思わなかった。しかも相当不幸な奴だ。
「北海道出身なの?」
「はい。峯村さんは?」
「俺は神奈川」
「神奈川かぁ。都会ですね。俺は北海道札幌で、東京なんか右も左もわからなくって、まだどっこも行ってないんですよ。何もかも違うから圧倒されちゃって」
こいつもまたよく喋るようだ。全体的にチャラいから誤魔化されそうだけれど、体つきは筋肉質で何かスポーツをやっていたんじゃないかと想像した。顔立ち自体も精悍で目は鋭い。神藤と同じ人懐こそうに見えて、もっと奥深いような気がする。いったいどんな奴なんだろう。興味が湧いた。
「ため口でいいよ」
と峯村は言った。
「えっ」
「相方同士ならため口でいいよ」
「えっ、俺が相方でいいの?」
「?」
身を乗り出して、北川は峯村の目をのぞき込んだ。
「もっと確かめなくていいの? 何ならお試し期間必要じゃないの? だって会ってからまだ三分も立ってないよ」
「別にいいよ、そんなの」
「えぇーっ」
いちいちうるさい奴だ。相性なんて試してみたところでわからないから実践してみないとしょうがない。
「本当にコンビ組んでくれんの? こんな急展開予想してなかったからビックリだよ。いや嬉しいんだけど」
「ならいいだろ」
「でもでも、心の準備ってものが」
「うるせぇな」
我慢出来なくて突っ込んでしまった。すると、北川は殊の外嬉しそうに頬を染めた。
「お、良かったじゃん。お見合い成立」
神藤が自分の手柄とばかりに胸を張った。
「ありがとー」
北川は大げさに手を合わせて、仲介役の彼らを拝む。
また急にアクセルを踏んでしまった。峯村は極端な行動を取る己の性分に後悔はしないけれど、不安はいっぱいだった。
コンビ名はあっさり決まった。北川が「俺そういうセンス全くないから峯村さん決めていーよー」というので、昔から考えていたいくつかの名前から呼びやすいものを選んだ。
「昔からコンビ名考えてたの?」
と、北川は聞いた。
「コンビ名ってわけじゃなくて、バンド名とかダンスチームとか、いつか使うときのために考えてたから」
「峯村さん楽器とかダンスできるの?」
「出来ないけど」
「何それ! 変なの!」
北川は肩を揺らして笑った。
「峯村さんて一見普通そうに見えて中身変だよね。周りの人気づいてないでしょ」
「普通そのくらいの妄想するだろ」
「しないよー。俺しないもん」
「じゃあお前が変わってるんだよ」
授業は基本的に二人で課題に取り組むので、必然的に他の時間も一緒にいることが多くなった。離れるのは寝る時とバイトと、パチンコを打ってる時。刷込された雛のように、北川は峯村の後をついてまわる。峯村よりも背丈は大きいので、ボディガードを連れてあるいている気分だった。
ある日教室に行くと、いきなり思いつめた顔をした北川に隅っこに連れて行かれ、小声でたずねられた。
「峯村さんてバイトよりパチンコやってる時間長いよね。俺ギャンブルやんないからわかんないけど、お金足りてなくない? もしかして借金しちゃってるの?」
「いや。今のとこ大丈夫」
「なんで?」
「バイト代が足りなくなったら子供の頃の貯金があるから。養成所の入学金もそこから払ったし」
「峯村さんちってお金持ちなの?」
北川はぽかんと呆れた。養成所には天涯孤独の人間もいれば親から仕送りを貰っている人間もいるけれど、峯村はそこまで甘えていない。
「今はもらってねーよ。昔使わないで貯めてたんだからいいだろ」
しかし北川は馬鹿にしたように言う。
「そういえばどっかお坊ちゃんぽいもんね」
「ねーよ」
「あるよー。育ちの良さが滲み出てるよ。ほら、食べ方きれいじゃん。箸の使い方とか」
「そのくらい普通だろーが」
「普通ってのは俺んちみたいなこと言うんだよ。都会の普通と全国の普通は違うんだから。うちは俺も弟も公立だし、母親もパート出てたし。あ、また自分のことばっかり喋っちゃった。峯村さんのお母さんって専業主婦だっけ?」
事あるごとに北川は質問攻めを始める。峯村に関することは何でも聞こうとする。彼曰く、「峯村さんのことは何でも知りたい! そして俺のことも知って欲しい!」だそうだ。
「だってコンビってそういうもんでしょ」と主張して止まない。
しかし、普通コンビといえば、舞台上で新鮮なトークや空気を作るために普段は接しないようにするものだ。
「それって仕事のあるコンビのことでしょ? 俺達まだ卵の分際で、舞台上でトークする機会もないじゃん。今はお互いのことをよく知って、方向性を探っていく期間だと思うんだ。かっこつけてる場合じゃないでしょ」
正論だった。
それでもうっとおしいことこの上ない。垂れ流される情報で北川について詳しくなっている自分も気色悪い。
「もう授業始まるから戻れよ」
「じゃあ終わったらね。俺いいこと思いついちゃった。後でね」
北川の「いいこと」なんて、いやな予感しかしなかった。結局その日の夕方、開店時間早々の居酒屋に連れていかれた。オーダーもそこそこに話しだす。
「あのさ、お互いのことを分かり合うのに一番良い方法は、秘密の共有だと思うんだよ」
「は?」
峯村は怪訝な顔をして北川を見上げた。
「だから、俺の秘密を話すから、峯村さんの秘密も教えて」
「何言ってんのお前」
「真面目に話してるんだよ!」
「なお悪いだろ。お前さ、前から言おうと思ってたけど……あ、ども」
運ばれてきたビールを一口飲んで、峯村は北川を真正面から見据えた。
「お前ちょこちょこ気持ち悪いぞ。女っぽいっていうか、女だってそんなこと言わねーってこと言うだろ」
「……そうかなぁ」
「言動がベタベタしてるっつうか、うざいっつうか、なんなんだよいったい」
「え、それって俺のこと嫌いってこと?」
「そういうとこ! その聞き方!」
「じゃあどうしたらいいんだよ。怒らないでよ!」
「怒ってねーよ!」
峯村は言葉を止めて、もう一口ビールを飲んだ。黙って北川と睨み合う。
「……こんなの怒ってるうちに入んねーだろ。あと嫌いにもなってねーよ」
そんな了見の狭い男じゃない。止めなきゃ暴走する一方だから止めるのだ。だいたい峯村は滅多に起こらない。年に一回も怒らない。自分の思い通りに行くことなんてないと諦めているから腹が立たない。世を拗ねすぎて一回転してしまっている。
「だいたい、秘密なんかねーよ」
峯村は言った。
「えーっ」
「お前はあんの?」
「秘密?」
「実は殺人犯だとか、スパイだとか」
「そんなわけないじゃん。非現実的なこと言わないでよ」
「じゃあ何があるんだよ」
「えっとねぇ、高校時代にサッカー部のめちゃくちゃ厳しい監督に嘘ついてサボったこととか」
「それのどこが秘密なんだよ」
峯村は呆れた。
予想しなかった返しに、北川は慌てる。
「あれ、ちょっと待って。初めての彼女と初チューする前に、つきあってない女の子とノリでチューしたことあるとか、お腹がすいたときスパゲティの乾麺そのまま齧ったことあるとか」
「だから、どこが秘密なんだって」
「あれー? おっかしいなぁ」
本気で北川は困っているようで、武ウッチは阿呆らしくなって笑ってしまった。
「この年になって男同士で言えないような秘密って大してないんだよ。俺だって昔女装してたことも隠してねーもん」
「ほゃ?」
北川が変な声を発した。
「今どっから声出したんだ」
「じょじょ、女装って何? 峯村さん女の子の格好してたってこと?」
「そうだよ。高一の時だからもっと細くてゴツゴツしてなかったから、すげーキモくなかったと思うぞ」
堂々と言った。
「な、なんで? オカマだったの?」
北川は目を白黒させている。
「ちげーよ。俺、服オタだったんだよ。女の子の服って同じブランドでもメンズラインよりおしゃれだろ。ヴィヴィアンとかロンソンとか、俺もレディースのほうが着たかったんだよ。今考えるとオタクすぎてこじらせてたんだと思う」
おかしいのは重々わかっている。ただその頃は一人で閉じこもっていたので客観的な思考がまるでなかったのだ。一度こうしたいと思ったら止まらなくなって加速度がついてしまう孤独の怖さ。今思えば、たまに登校する際の戦闘服だったんじゃないかと自分を振り返る。親しくない同級生に奇異の視線を向けられるのも快感だった。おまえらとは違うんだ特別なんだと誇らしかった。実際、色白で華奢な手足にレディースのカジュアルブランドは似合っていたと今でも思う。ボーイッシュなモデルの女の子とたいして変わらないように思えた。服装のせいで苛められることはなく、むしろ男女共に受け入れられていた。女子は服の情報を聞いてきた。男子は馴れ馴れしく触ってくることが多かった。高一の冬から高二の終わり頃まで女装癖は続いた。
「はぁ……確かに、峯村さん服おしゃれだよね。顔が地味でわかりにくいけど、今来てるのも有名ショップのTシャツだよね」
「顔が地味で悪かったな。まぁ、今は昔ほどこだわってない」
「それ、みんな知ってるの? 神藤ちゃんとあーちゃんも?」
「言って……ないかな、まだ。でも隠してないし、いつでも言える」
「でもまだ言ってないんでしょ? 俺しか知らないの? それ秘密でしょ!」
「秘密じゃねーって」
「今のところは秘密でしょー! あっ、卵焼き来た。いただきまーす」
満足して食事に手を付ける。釈然としないのは峯村のほうだ。結局北川のペースに乗せられてしまったようで悔しい。ビールを一気にあおる。
「すいません、ビールも一杯ください」
ちらりと北川を見ると、勝ち誇ったように卵焼きを頬張っていた。
こいつ本当は危険なんじゃないのかと、さらに不安が増大した。
帰り際、北川はぽつりと呟いた。
「バイト変えようかなぁ」
「ん? こないだ研修期間終わったばかりじゃなかったか?」
「そうなんだけどー。うー、人間関係がさぁ」
もどかしげに唇を噛む。
「峯村さんところは時給いいよねぇ」
「おまえ……紹介しないからな」
峯村は先手を打った。
「何で」
「バイトまで一緒にやれるかよ」
「いーじゃーん。楽しそうだよ」
「やだよ。じゃあな」
峯村はそのバイト先に向かった。駅の目の前にあるレンタルビデオ店のバイトだった。場所の便利さと、それほど愛想を必要としないところが良い。
芸人を目指していることは周囲に言っていない。メディア系の専門学校に通っていると言うことにしている。なんとなくそれで納得されるからすごい。
北川は今はピザ屋のバイトをしていると言っていた。女の子がたくさんいると喜んでいたのに、やめたいのは何故だろう。
「峯村くん、新規入会の手続きお願い」
「あ、はい」
連休前のビデオ店は忙しくて、考え事が出来る暇は無かった。
翌日からも暫く、北川の様子はおかしかった。落ち着きがなく、携帯電話を頻繁に確認していた。
「昼飯行くか」
憂鬱なダンスの授業が終わったので晴れ晴れとした気持ちで峯村は北川に声をかけた。
「うん、外? それとも買ってくる?」
「カレー食べに行こうよ、割引券持ってる」
「オッケー」
少し離れたところのうどん屋まで歩く。同じようにランチに出る人の群れと行き交う。北川がしみじみと言う。
「東京の女の子ってみんなかわいくてびっくりするねー」
「そうかぁ?」
峯村は首を傾げた。
「そうだよ。平均値が違うんだよ。こっちのほう出身の人は有り難みをわかってない」
「そんなに言うなら彼女作れば?」
峯村は言った。
北川は一年程つきあっていた女の子がいたそうだが、少し前に別れたそうだ。だから現在彼女はいない。けれど女友達は沢山いるようだ。よくケータイメールで熱心にやり取りしている。
北川は「んーっ」と呻いて、空を仰いだ。
「でもなぁ。俺、恋愛って向いてない気がするんだ」
「なんだそりゃ。前の彼女とは何が原因で別れたんだ?」
「ふられたんだよ」
「へぇ」
「ついていかれないって」
「わかる」
「わかるなよ! わからないでしょ!」
北川は力いっぱい否定した。
「峯村さんは、誰かと付き合わないの?」
「今はいい」
あっさり言い切ったのは、余計なことをごちゃごちゃ言われたくないからだ。言うのはいいけれど言われるのはいやだ。
「つきあったことあるの?」
「なんだよその質問」
峯村は憤慨した。しかし北川はまじまじと峯村を見つめている。
「だってさぁ、峯村さんてそういう匂いしないもん」
「そういう?」
「雄っぽい匂い」
「悪かったな」
北川は立ち止まり、峯村のシャツを引っ張って引き止める。
「わっ」
「くんくん。いー匂い。石鹸の匂いしかしないよ」
「やめろよ」
「変な女に引っかからないで欲しいなぁ」
「さっきから上から目線の発言ばっかしやがって。やめろ、触ん、な」
峯村は両手を振って避ける。北川はますます強い力で峯村を体ごと引き寄せる。
「やめ」
「ねぇ、俺の後ろに女の子いるでしょ」
「え?」
「いない?」
北川の肩ごしに女の子が立っていた。峯村と目が合うとさっと反らせたが、その場を動かずにうろうろしている。
「いる」
北川は短くため息をついた。
「やっぱり」
「知り合い?」
「声かけないでね。そのまま知らんぷりしててよ」
「なんで」
「しつこいんだ。バイトが一緒の大学生。しょっちゅうポエムみたいなメールを送ってくるから我慢出来なくて昨日着信拒否にしたら、朝から着いて来てる」
「ストーカー?」
「そこまでじゃないと思うけど」
北川は忌々しげに舌打ちをした。
「ただ俺としてはイライラする」
「…………」
だからバイトを変えたいと言っていたのか。
でも、どっちかな。
峯村は内心疑った。女の子が思いつめることもあるだろうし、北川が酷く冷たくした可能性もある。いつもグニャグニャしてるくせに、こういう時はすごく気の強さが前面に表れる。
「いいや、ごはん食べよう」
早足でカレー屋に入った。混んでいたので店の中で十分くらい待った後、カウンターに座れた。
「ここのカツカレー最高だよねぇ」
機嫌が元に戻ったように、北川はよく喋りながらカツカレーを平らげた。峯村はどれだけダンスの授業がくだらないか生卵入りのカレーをぐちゃぐちゃ混ぜながら語った。
「ごちそーさま!」
満腹になって満足して店を出た。
「あ」
さっきの女の子が店の前にいた。
「やばくないか」
峯村は北川を振り返った。
「無視しよう」
北川はそう言って歩き始めた。峯村も黙って着いていく。
また彼女は着いてくるのだろうか。怖くて振り返れない。北川は黙って歩いていく。
が、舌打ちが聞こえたかと思うと、急に後ろを振り返った。
「お前っ、いい加減にしろよっ!」
聞いたこともない声で怒鳴り、傍らに置いてあった自転者を力任せに蹴飛ばした。すごい音を立てて倒れたので、遠くの人まで振り向いた。
やはり後ろを着いてきていた彼女は怯えたような表情でしばらく固まっていたが、はっと我に帰ると泣きそうな顔で逃げ出した。
「……びっくりした」
彼女ほどではないが、峯村も驚いた。これだけやれば二度と彼女も近づかないだろう。百年の恋も冷めさせる北川の凶暴さ。
「あの子すげー怖がってたな。ありゃ泣くわ。お前女相手に容赦ないな」
重い空気を混ぜっ返したつもりだった。ところが、当の北川は真っ青な顔色をして手のひらを口元に当てていた。
「……前にも……」
北川は搾り出すような声で言った。
「え?」
「前と同じだ。あいつと」
「誰?」
「前の彼女。怒ったらすごく怖がって、こんな人だと思わなかったって言って、すごくすごく嫌われて、別れた」
「……ふぅん」
峯村は肩を竦めた。想像はつく。普段の北川が好きで、安心してつきあっていた子だったらショックだろう。
「まぁ、いきなりキレないように気を付けたほうがいいんじゃねーの」
「うん」
「今回のはもうしょうがないだろ」
「うん」
「次から気をつけろよ」
「嫌いになった?」
「え?」
「峯村さんも嫌いになった?」
「何でだよ」
「ごめん。本当にごめん。ごめんなさい。もうしないから。嫌いにならないで」
「何言ってんの。俺は関係ないじゃん」
「ほんと? 大丈夫?」
「お、おう」
「良かったぁ」
いつもの北川に戻った。緩んだ笑顔を浮かべる。
「あっ、自転車直さないと」
焦って倒れた自転車を元に戻すと、ほっとした様子で歩き始めた。
「…………」
峯村は後ろを歩きながら考える。一体どちらが彼の本性なのだろうか、と。
知りあってから今までの短い間だが、近くで見てきた限り、たぶんどちらも北川なのだ。両方共、彼の中に混在している。
峯村には、最初に会った時から分かっていたような気がする。
さっきの子も、前の彼女も、彼を好きな女の子たちは、好きなあまり見抜けなかったのかもしれない。だから幻滅したのだろうけれど、峯村は違った。
峯村は彼を恐れなかった。
2
それから三年、周囲の心配をよそに彼らコンビは順調に養成所を卒業し、芸人としての道のりを歩き始めた。初舞台は渋谷の小さな劇場で、四分のコントを演じた。北川の目立ち方は芸人として得をする。とにかく最初はどんなことをしてもいいから目立ちたい。彼が前に一歩出て打たれている間に後ろで峯村が空気を読んで適切な言葉を考えてからフォローを引き受ける。そのやり方でフリースタイルは切り抜けられるようになっていた。
「だから、北川は空気読まなくていいよ。場をかき回してくれれば」
「さっすが。峯村さん頼りになるー!」
北川は未だにさん付けで峯村を呼んでいた。出会った頃と変わらない、一定の距離感を保ったままだ。
ある日のライブの帰り、劇場から出てきたところで声をかけられた。
「峯村?」
長身の、爽やかな男。てっきり知り合いか、客の一人だと思った。
「峯村だよな。三中の」
「え」
「覚えてるか?」
「…………飯田?」
全身が鳥肌立った。
中学の同級生だった、飯田明彦が十年ぶりに目の前に現れた。
「覚えてたな」
飯田は自信たっぷりに笑っていた。
「お前ここで何やってんの? これ何? なんか有名人いるの?」
まさか芸人をやっているとは言えない。想像もしないだろう。大人しくて、いつもオドオドしていた峯村が人前に出る仕事をしているなどとは。
「さぁ、俺も通りがかっただけだから……飯田こそ、何やってんの」
「俺はふつーに買い物。彼女と待ち合わせてるんだけどまだ時間あるから飯でも食う?」
「え、いや」
何でこんなふうに気軽に誘うのかわからなかった。最後に会ったのはいつだっけ。無理やり出席させられた卒業式で見かけた。視線が合っただけで挨拶はしなかった。
「峯村さん!」
後から出てきた北川に肩を叩かれて、びくっと飛び跳ねそうになった。
「どうしたの? 誰? 知り合い?」
「お、あ、う、うん。昔の」
「そうなんだ。こんにちは」
北川は礼儀正しく笑顔を向ける。
「どうも。何だ、連れがいたのか。じゃあ無理だな。元気にやってるの見て安心したよ。そのうち連絡するわ」
彼はあっさり去ってしまった。
峯村は動揺を抑えられない。連絡って、実家しか連絡先をしらないくせにどこまで本気で言ってるんだ? 安心したって何なんだ。
「どうしたの? 呼吸変だよ」
「な、何でもない」
不思議がる北川を置いて、峯村は駅の方向へ歩き出す。
「ちょっと待ってよ。この後ネタ作りするっていってたじゃん」
「そうだっけ。そうだ」
思い出して立ち止まる。
「ほんと変だよ?」
「大丈夫」
冷静を装って、いつもネタ作りに使うファミレスへ行った。ドリンクバーで朝まで粘ることも多い。
「さっきの人、なんだったの?」
「いいだろ、そんなこと」
「言えないような人なの?」
北川は挑発して聞き出そうとする。
「ただの、同級生だよ」
「中学の? 高校の?」
「両方」
「両方なんだ。じゃあ仲良しだったの?」
「全然」
峯村はメロンソーダに差したストローを齧る。
「言ったろ、不登校だったって」
「でも高校は行ってたんでしょ?」
「まぁ、何とか……」
「あ、もしかしてあいつがイジメっ子だったとか」
「あ」
「そうなんだ!」
答える前に北川は一人で頷いた。
「えーっ、だったら仕返しすればよかったのに! 何で言ってくれなかったの? 俺殴ってやったのに」
彼は怒りを顕にした。
「あーもーくやしい! 今からでも追いかけて連れてこようか」
「どっか行ったよ。探せるわけないだろ」
冷静に峯村は言った。
「何でそんな落ち着いてるの? 俺は悔しいよ。あいつ、峯村さんを苛めた奴なんだよ!」
「う、ん……」
当の本人が冷静では、北川も黙るしかない。
「いったい苛めって何されたの? えぐい?」
「それなりに」
「俺はサッカー部で上下関係厳しくて、先輩から理不尽にしごかれることもあったけど、そういうのとは違ってただの同級生だったわけでしょ? 下に見られる理由ないよね。わけわかんない。陰湿だよ。中学生だからって許されるわけじゃないと思う」
「はは、お前のそういう真っ直ぐなとこ羨ましいな」
「だって、だって」
北川のほうが泣き出しそうな表情をしていた。峯村のほうはそんな単純なことではない。悔しいとか復讐したいとかの負の感情は芸人を目指す時に箱に入れて捨てたはずだった。その一番奥にしまったはずのものが、突然目の前に現れたのだ。
昔と全く変わっていないように見えた。彼は、自信に溢れていて、堂々としている。同級生でも対等になれない場合もあるのだ。
正直、北川はあっち側の人間だと峯村は思った。その力を使うか使わないかの違いだ。
十年前も彼の前で峯村は無力だった。
家から近いところにある市立中学は、閉塞感に満ちていた。きっかけはたしか、誰かがふざけ半分でわざと机を引っくり返されたことだった。大きな音にびっくりして床にしゃがみこんでしまい、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらぶちまけられた教科書やノートを片付けていた。それがいけなかった。
悪ふざけはエスカレートして、姑息にダメージの大きい嫌がらせをされた。男同士の関係はさっぱりしているなんてまったくの嘘だ。女子からは同情され、たまに助けてもらった。それが余計火に油を注いだ。
飯田はいつでもクラスの中心にいるような性格だったので、末端の生徒苛めにいつも関わっているわけじゃなかったが、時々その輪に加わって笑うことがあった。それが苛めっ子たちを勇気づけた。
水をかけられて蹴飛ばされて転がされた峯村を見て、彼が言ったのをよく覚えている。
「峯村のその顔おもしれぇな」
飯田はニヤニヤしながら見ていた。
「俺ももっと見たい」
彼の発言によって、苛めを誘発するのは自分の容姿や態度なのだと思い知らされて、峯村は絶望の底に突き落とされた気がした。その翌日から、朝制服を着て家を出ようと思っても、足が震えて歩けなくなった。吐き気がしてトイレに篭った。
今になってみれば、何一つ自分のせいじゃないとわかる。歪んだ集団生活に必要な生贄の役回りを引いてしまっただけだ。でも当時は本当に自分の問題だと思い込んでいて苦しかった。
親は無理に行けとは言わなかったので、家にいる限り平穏な生活だった。以前北川に指摘されたとおり確かに経済的に余裕のある家庭だった。母親が近所の女子大生に頼んで家庭教師をしてもらったので勉強も出来た。
高校は少し離れた私立の男子高に入れたので、新しい環境だった。ところが、ひとりだけ知った顔がいた。それが飯田だった。
けれども彼は峯村の過去に触れなかった。おかげでまともな学校生活を送れた。偏差値の高い男子校というのは驚くほど平和で、変わり者も多かった。峯村も休み癖と女装癖のある生徒として自然に受け入れられていた。
あの日までは……。
「峯村さん、大丈夫?」
北川の声で我に返った。記憶の波に飲まれるところだった。
「あ、大丈夫。なんだっけ、……三分ネタ、作らなきゃ」
「そうだね。アリネタ改変する?」
「どれ? コンビニ? だったら出だしの細かいとこ端折って。ちょっと待って、ノート出すから」
鞄からネタを整理しているノートを取り出して、いつも通り仕事の話を続けた。北川は普通に喋りながら、時々ちらちらと峯村の様子を気遣っていた。
心配しなくとも二度と飯田と会うことはないだろう。今日のことは単なる偶然。大丈夫。
体に悪そうな色のメロンソーダをちびちび飲みながら峯村は、自分のことのように怒ってくれる北川に心の中でこっそり感謝した。
そんなことがあったせいか、その日から峯村は落ち込む出来事が続いた。
客が一桁しか入らないライブくらいではへこまないが、既に収録済みのTV番組の出演部分がお蔵入りになってしまったのは地味にショックを受けた。
また、別のTV番組のオーディションに呼ばれ、プロデューサーやらディレクターやらの前でギャグや特技を披露するも思い切りすべった。
続けて、前説が悪いと、ひと癖ある先輩芸人に楽屋で叱られた。特に虫の居所が悪かったようで、大勢のいる前でコンビ揃って、面白くない奴はさっさと辞めろと言われた。その場にいた他の先輩芸人たちが間に入ってくれたのでなんとかその場はおさまったが、今度からあの先輩がいる時はできるだけ隠れるしかなさそうだった。
さらに、携帯電話を電車の中に落としてしまい、仕方なく新しい機種を買った。失ったメモリーはまだ全て戻しきれていない。
自分が不甲斐なくてうんざりした。芸人とはいえ人間なので、どうしてもやる気が出ない時がある。
夕方から始まるMCを努めるライブのため、集合時間の二時よりも早く楽屋に入って、一人でぼうっとしていた。
「旅に出たい……」
思わずつぶやいたところへ、リュックを背負った北川が飛び込んできた。
「峯村さぁーん!」
「あ?」
「聞いてよ、俺のブログにひどいコメントばっかり書き込まれるの!」
「騒ぐほどのことじゃないだろ」
苛立って峯村は一蹴した。
「騒ぐよー。わざわざ気持ち悪いとか消えてとか書き込む人ってなんなんだろう。欲求不満なのかなぁ」
「俺が知るわけないだろ。本人に聞け」
「聞きたいよ! でもメールアドレスもないしさ、どうせ本名じゃないんでしょ、ずるいよねぇこういうの。俺直接話し合いたいよ。俺のどこが気持ち悪いの? 何で消えてほしいの?って」
「わかったわかった。落ち着け」
仕方なく峯村は慰める。峯村同様、彼もここのところの試練に参っているのだろう。項垂れて峯村の隣に座り込んだ。
「もー……、つらい、ね。芸人やってるのも」
「……うん」
素直に峯村は肯く。二人で床を見つめた。
沈黙を破ったのは北川のほうだった。
「あれ。もしかして峯村さん、やめたいなんて考えちゃってたりして」
峯村は即座に否定する。
「ねーよ。お前こそ」
「俺もないって。良かったぁ」
彼は一抹の不安を笑い飛ばしたものの、両手で髪を掻きむしった。
「うわぁぁぁ、早く売れたいよぉぉ」
「うん」
「お金持ちになりたいよぉぉぉ」
「うん」
「…………」
ひと仕切り叫んですっきりしたらしい。ため息をつき、うつろな目で天井を見上げた。
「峯村さぁん。がんばろうねぇ」
「がんばってるよ、俺ら」
峯村は心から答えた。毎日不安と戦って、毎日他人と立ち向かっている。普通の会社員とは違う種類の苦しみ。もしこの職業が本当に気楽だとしたら、こんなに辞めて行く仲間はいないだろう。養成所の同期は殆どみんな辞めてしまった。
まるで、チキンレースのような人生だと思う。あと少し、あと少しだけ前に進めば売れるかもしれない。けれど崖から真っ逆さまに落ちることを考えたら足ががくがく震える。もうやめたほうがいいんじゃないか、これ以上は無理なんじゃないかと、みんなリタイアしてしまうのだ。
峯村に特別度胸があるわけじゃない。何でこんなことやらなきゃならないんだという仕事ばかりで、子供からも見下される。それでも続けているのは、人を笑わせている間は楽しくて仕方がないからだ。
苛められて引きこもっていた自分が、人の感情を引き出すこと。ファンから届く手紙は、どれだけ日々の励みになるか、救われるかを一生懸命伝えてくれる。そんな偉そうなことをしているつもりはないけれど、喜んでくれるのが嬉しい。人に必要とされるのが嬉しい。
想いは同じなのか、近頃残っている同期の連帯感を感じるようになった。特にプライベートで一緒にいることの多い芸人同士でユニットコントライブをしたいという企画を事務所に提案した。同調してくれた作家もいたおかげで、企画はすんなり通った。
メンバーは阿川神藤と、兄弟漫才コンビのパンプキン、物真似が得意なピン芸人の片平行成、そして彼らティースプーンだった。
もちろん他の仕事もがんばっていたが、そのライブには思い入れがあった。8本のコントとブリッジのVTR。お互いスケジュールがバラバラなので、隙間を縫って打ち合わせと稽古をした。嬉しいことにチケットの売れ行きは好調で、チケットを直接捌く心配はしなくて良さそうだった。
「それってさー、俺ら五組の中で誰目当てに売れてんだろね」
稽古の終りに神藤が下衆なことを言い出す。
「何それ。自分たちって言いたいんかよ」
片平が言った。神藤はソロでライブをやってもチケットが売れる。どうしてそこまで人気があるのかわからないがとにかく人気だ。
たまにルックスが良い奴は人気があると思い込んでいる後輩芸人もいるが、そんな甘いわけがない。モデルみたいな容姿をしていたって人気の無い奴がいる。逆に、容姿は並かそれ以下でも以上に女性ファンが多い神藤のような奴がいるのだ。
神藤はへらへら笑う。
「そんな滅相もない。ウチらなんて全然人気ないっすから」
「やらしー言い方すんな」
相方が諌める。
「普通に相乗効果ってヤツだろ。まとめ売りのお得感があるんだろ」
「お得感って、スーパーの特売みてーに言うなよなぁ」
気心の知れた奴らと時間を過ごすのは楽しい。学生の時に文化祭などの行事を楽しめなかった分、今になって埋め合わせしているようなものだ。
騒いでいる横で、丸々と太った片平がトドのように転がった。
「あー眠い。家まで帰るのめんどくせー。ここに泊まっちゃおうかなぁ」
パンプキンの弟の方、秋久が言う。すると既に帰り支度を終えた兄の春雄が提案した。
「俺んち方面のやつ、俺がバイク乗せてってやるよ。もちろん一人だけな」
「えっ、そこは弟を優遇しないの?」
「しねーよ、ほら、じゃーんけーん」
ジャンケン大会が始まったのを尻目に、峯村は一足先に稽古場を出た。
「お先」
その後を阿川がついてきた。
「ちょっと待てよ。俺も一緒に帰る」
「あー? オレ金ないから歩いて帰るんだぞ」
「いいよ」
阿川と峯村は最寄り駅が隣だった。何度も近所の商店街で遭遇したことがある。彼はつきあっている彼女と同棲している。彼女はかなり稼ぎのあるキャバクラ嬢だそうだ。
「最近、ごはん作ってあげられないから彼女怒っちゃってさぁ」
彼は尽くすタイプようで、嬉しそうに惚気話をする。峯村は適当に聞き流しながら歩いていた。
深夜に都心を歩くのはけっこう面白い。違う世界に迷い込んだような感覚に陥る。一人でいる時は空想が広がるが、こうして誰かと歩いているいる時は、つい深い話に発展してしまったりもする。
「そういえばさぁ」
阿川は話題を変えた。
「神藤のやつ、今日の朝一番最初のライブ遅刻したんだよ」
「えー、またかよ」
「師匠クラスもいるのにさー、しんどかったよ」
「相方が気まずいよな、そういう時。あいつ寝てたの?」
「そう。電話出てても出なくて。結局四十分遅れで来たんだけど、なんで電話出ないんだよって聞いたらどうせ電話したって遅れるのは変わんないんだから、その分早く着いた方がいいだろって開き直ってんの。むかつくわ」
「うわ、目に浮かぶ。素直じゃないんだよな」
「その点お前らは問題ないよな。きっちりしてるし」
「そのかわり、確認メールがじゃんじゃん来る。どんだけ自信ないんだよってくらい」
「まじで。それもうっとおしいな」
阿川は爆笑した。
「とにかくほんと、神藤むかつく。一度天罰下ったほうがいい」。
それから二人で神藤の悪口を言いながら歩き続けた。笑い声が住宅街に響いた。
「じゃあな」
「お疲れ」
駅前で別れ、峯村は一人になってから、
「がんばろ」
と、自分に言い聞かせるように呟いた。
当日は大きなアクシデントもなく、あっという間に終わってしまった。楽しみなことほどあっけない。しかし本番よりもっと楽しみなことは、打ち上げだった。会場近くの居酒屋に皆揃って雪崩込んだ。
「神ちゃん、こっちグラスちょうだい」
「ほい」
「春ちゃん、乾杯の音頭やれよ」
「俺? いいの?」
「ライブの発起人じゃん」
「そか。では、一部滑りましたが、満員御礼で成功といえるでしょう! お疲れ様でした。かんぱーい!」
「かんぱーい!」
みんなでグラスを合わせた後、神藤が言う。
「なにお前真面目に言ったんだよ。ボケろ」
「真面目に言ったら悪いか」
「げ、開き直った。おもしろくねー!」
くだらないことを隙間なく言い合って止まらない。
「これで深夜稽古がなくなるから、彼女に怒られないで済むんじゃない?」
何気なくした話題に、阿川は暗い表情を浮かべた。
「それが、実はさぁ、俺彼女と別れるかもしんねー」
「えぇっ?」
峯村は驚いた。数日前はあれだけ仲良さそうだったのにどういうことだろう。
「喧嘩したの?」
「うん、というか同じ喧嘩を何度もしてて、もうだめかなって感じ」
「へー、どんなことで?」
「……神藤のこと」
「へっ?」
「しっ!」
違うテーブルで騒いでいる本人に聞かれないよう、阿川は声のトーンを落とした。
「ごめん。なんで神藤のことで喧嘩すんの?」
「それが、彼女がヤキモチ焼くんだよ」
「神藤に? なんで? だってお前らプライベートは一緒にいないじゃん」
「そうなんだけど……俺がつい話題に出しちゃうんだよ」
「なにそれ。話さなきゃいいじゃん」
「そんなの意識してるわけじゃないからわかんねーよ。出来ない」
「えぇえ!」
峯村は本気で驚いた。一緒に遊ぶわけでもなく、悪口もたくさん言っているのに、彼女に神藤のことを喋るなんて信じられない。
「まさかそんなつまらねーことで別れちゃうのか?」
「まだわかんないよ」
阿川は口を尖らせて言い返す。峯村はちらっと神藤の横顔を盗み見ながらたずねる。
「それ、神藤に言った?」
「言う訳ないだろ」
「だよな」
「お前も言うなよ」
「う、うん」
峯村は慌てて肯く。話したことを後悔しているのか、阿川は一人で照れて枝豆を次々食べていた。
「わかんないもんだなぁ」
峯村は呟いた。
「何真面目な話してんの?」
片平が二人の間に割って入ってきた。
「ほら、飲め飲め」
「俺酒飲めないってば」
そう断りつつ、気分が良くて、峯村はいつのまにか大分飲みすぎてしまった。寒気がすると思ったころには、頭が支えられないほど痛くて立てなくなった。
おそらく根本的にアルコールが合わない体質なのだ。たまにそれを忘れて飲みすぎてしまうとこうなる。
「大丈夫か?」
阿川は峯村の顔色に驚いて確かめた。
「うーん……」
「俺らこれから広田のバイト先行って飲むけどどうする? 帰るっつってもお前んち遠いからタクシーじゃ金かかるよな」
「俺んち連れてくよ」
北川が言った。
「こっからなら近い」
「なんだ、北川も帰っちゃうの?」
「だって峯村さんこんなんだもん」
「えらいな、相方の責任取って」
「いつもは逆なんだから、たまには相方孝行しないとなー」
口々にからかわれる。
「うるさいなー。いくら置いてけばいい? さんごー? じゃあふたり分で七千ね、ちょうどあるよ。じゃね、バイバイ」
峯村の腕を引っ張って、北川は店を出た。ふらふらしている峯村を何度も振り返りつつ、空車を捕まえた。峯村が意識を失っている間に北川のアパートに着いた。
「峯村さん、着いたよ。捕まって」
「んー」
抱えられるようにして、部屋の中に運び込まれた。床に積まれた服や小物の類で溢れている。洗剤の良い匂いがして、峯村は床に転がって鼻をひくひく動かしていた。
「そのまま寝るの? シャワーは? ……無理か。はい毛布」
毛布を与えると、峯村は手足を縮めてくるまった。
北川はシャワーを浴びに行く。髪を乾かして寝間着代わりのTシャツを着て戻ると、峯村は同じ姿勢で眠っていた。しばらく立ったまま相方のあどけない寝顔を見下ろしていた。それから傍らにしゃがみこんで頬を叩く。何度か続けるうちに峯村はぴくっと反応した。
「んん? きた、がわ?」
薄く目を開ける。
「俺だよ」
「ここ、どこ」
「俺んち」
「あ、おれ、かえれなくなったのか」
「そうだよ。大丈夫?」
「うん……。あー久しぶりにこんな飲んだ」
「峯村さんさぁ」
「ん?」
「昔、秘密なんかないって言ってたけどさ、嘘ついたでしょ」
「?」
「俺、こないだの飯田ってやつのこと思い出してムカムカするんだよね」
峯村は、酔っているせいか、北川が何を言っているのか理解できなかった。
「あの飯田って奴に、何されたの?」
「え」
「俺だったら、苛めてた奴が女の格好してたら見過ごさないけどね」
峯村は急速に酔いが冷めていくのがわかった。北川は何か勘付いている。同じ側の人間だということを甘く見ていたかもしれない。
「何言ってるんだよ。そんな話、お前に関係ないだろ」
「あるよ。相方のことだもん」
「ないよ。気分のいい話題じゃないだろ。やめろよ」
「もしかして、あいつにレイプされた?」
冷水を浴びせかけられたようだった。
「まさか!」
峯村は叫ぶ。
「されてないの?」
「ったりまえだろ……そんな……」
「そうかなぁ。だって、俺があいつだったら……」
「いっ」
北川はいきなり髪を掴んで体を起こした。
「痛、痛いっ。なにすっ?」
叫ぶ峯村の頬を反対の手で打った。パァンと小気味良い音が響く。
「ひっ」
峯村は混乱して頬を抑える。
「な、何? 北川?」
「むかつくよ。飯田ってやつにも、峯村さんにも」
「何で俺……」
もう一度平手打ちされた。衝撃で床に這い蹲る。それを避けるように北川は立ち上がって聞いた。
「本当は何されたの?」
「えっ」
聞き返した峯村は、肩の辺りを踵で蹴られた。裸足なので威力はないが、言わなければ何度でも暴力を振るうだろう。
「言う! 言うから!」
峯村は慌てて言った。
「……って……」
「何? 聞こえない」
「……自分で、やって見せろって……!」
「したの?」
冷静に聞く北川に、峯村は黙って頷いた。
「そっかぁ。じゃあ、今同じことやってよ」
「なんでっ!」
「だってムカつくじゃん。あいつの言う事は聞いて、俺のお願いは聞いてくれないの?」
思わず睨みつけた峯村を、北川は無表情で蹴り飛ばした。
「…………っ」
「ねぇ、峯村さん。はーやーくぅ」
「う、ぅ」
峯村は、震える両手でベルトをはずす。往生際悪く隠し気味にしていると、北川は裾を引っ張ってボクサーパンツごと引きずり下ろす。
「あれ?」
冷たい声が響く。
「何でもう勃ってんの?」
「!」
峯村は恥ずかしくて舌を噛み切りたいくらいだった。
「あぁそっか。そうだよね。峯村さんもこういうのが好きなんだ」
「ちが」
「違わないよね、こんなに勃ってて」
「あっ」
乳首を思い切り捻られた。
「じゃあ実は結構楽しい学校生活だったんじゃない? 同情して損した。ほら、早く自分でやってよ」
「うぅ」
恐る恐る自分のそれを握った。否応なく勃起している状態を確認させられる。仕方なく上下に擦る。
北川の表情を確かめる勇気はなかった。けれど、冷酷な視線を感じる。相方に見られている異常な状況で、何よりも惨めなのは、自分がどうしようもなく快感を感じてしまっていることだった。
「……ぅ、……うぅ」
しっかり勃起しているものの、アルコールのせいで最後までなかなかイケない。永遠にも思える時間。もうすぐ、あと少し、というところで思い切って一度ちらっと北川を見上げた。
彼は、見たこともない残酷な目で峯村を見下ろしていた。口元に笑みさえ浮かべて。
「うぅっ」
やっと自身の手のひらに白濁を吐き出すと同時に峯村の意識は薄く遠のいていった。
3
あの夜の出来事は夢だったのかと思うことがある。翌朝目が覚めた時には、峯村の体は汚れていることもなく、ちゃんと布団で寝ていた。どんな顔をしていいかわからなくてスニーカーのつま先を見つめたまま仕事場に顔を出した峯村を、北川もまったくいつも通りの様子で迎えた。前日のことについては「ライブが楽しかった」「飲みすぎた」以外のことは何も言わなかった。それでも峯村は数日の間、緊張して過ごした。北川の言動ひとつひとつにビクビクした。しかし本当に何もなく、いつしか本当に夢だったんじゃないだろうかと思うようになった。
あれから三年が経ち、今の今まであの夜のことが話題に出たことはない。
「聞いてよ!」
また始まったという顔で峯村は隣にいる北川を見上げた。
「昨日の帰りに出待ちの子がさ、俺に峯村さんとコンビ解消してくれって。ふさわしくないって言うんだよ!」
「あの子、お前のところにも行ったのか」
「えぇっ、峯村さんも言われたの?」
峯村が聞き返すと、北川は目を丸くした。
「何あの子! コワイんだけど!」
「コワイな」
「それで、峯村さんは何て反応したの?」
「いや、何も」
反応する暇もなかった。しかもその後後輩の小豆沢に同じことを言われたのは黙っていることにした。知ったら本人のところまで行きそうな気がする。喧嘩をしたら確実に小豆沢の方が勝つだろうが、余計な揉め事は避けたい。
峯村が内心など知らないはずの北川は、自信なさそうにたずねる。
「あのさ、峯村さんも、コンビ解消した方がいいって思ってる?」
「思ってねぇよ」
「ほんとに?」
「思ってたらとっくにしてるわ」
「ふぅん」
北川は完全に納得はしない様子で言葉を止めた。峯村は、返事がわかりつつも訪ねる。
「お前はどうなんだよ」
「え?」
「俺にばっかり聞くけど、お前のほうはどうなんだ?」
すると北川は凛々しい眉をぎゅっとハの字に寄せた。
「俺は、峯村さんてほんと面白いし、好きなお笑いの方向性合うし、俺のことも面白くしてくれる、けど」
「けど?」
「ちゃんと考えたら、離れた方がいいのかって思ってる」
「…………は?」
突然峯村の頭の中は真っ白になった。
「不釣合いっていうのは本当だし、俺が足引っ張っちゃってるのわかるから」
「…………お前、何、言ってんの」
指先が震えた。耳がおかしくなってしまったのかと疑う。
「売れるためには、たぶん、そうしたほうがいいと思う」
「はぁぁ?」
峯村は大声で叫んだ。峯村に頭の中では、北川の答えは決まっていた。「そんなはずないじゃない!」っていつものようにウザイ口調でわめくはずだった。なのに、こいつは何を言っているんだ?
「ちょ、峯村さん。声大きいよー」
「……っ! 死ね!」
返す言葉が出てこなかった峯村は捨て台詞を吐いてその場を走って逃げ出した。
本当にわけがわからない。
峯村は頭に血が昇って、どこをどう帰ってきたのか覚えてないくらいだった。一人、アパートの部屋の中で峯村はパニックで蹲った。
「ってことは何? 俺だけがコンビうまくいってるって思ってたのかよ? すっげ勘違い野郎じゃん! クソッ!」
一人で叫ぶ。じゃあもういい、顔も見たくない、と思ってもとりあえず仕事はある。 翌日は珍しく地方営業の仕事が入っていた。神戸のデパートでの営業だ。現地集合なのでスタッフと一緒に乗り込む新幹線の時間だけ知らされた。
「おはよー、峯村さーん」
「…………」
「えっ、ちょっと、ちょっと待ってよ」
大人気ないこととわかりながら、峯村は北川と口を聞かなかった。
勝手に切符を買って新幹線も離れたところに座り、峯村は限りなく北川に近づかないようにしていた。
「もー、何怒ってるんだか知らないけど、ネタはちゃんとやってよね」
「当たり前だろ」
「あ、やっと喋った」
舞台ではいつも通りに振舞った。ぎこちないところがあったかもしれないが、初めて彼らを見る客ばかりなので誰も不自然に思わなかっただろう。
帰り支度をしながら北川は言う。
「明日は機嫌なおしてよね!」
「…………」
峯村の怒りは少しもおさまっていない。このまま解散する可能性についてさえ考え始めていた。
ところが、そんな時に限ってアクシデントが起きるものだ。同じライブの次の日は同期の三上トリオが出演するはずだったのだが、東京の仕事とダブルブッキングになっていたという連絡が東京の事務所から入った。
次の日休みの予定だった彼らが二日続けて出演することになった。
「えぇー、急に言われても、どこに泊まればいいんですか。ビジネスホテル? ちょ、ちょっと待ってください、メモりますから」
既に事務所の方で部屋を確保しておいたらしい。それは有り難いが、案の定ツイン一室だった。
「領収書忘れるなって」
「げぇマジー?」
気まずい。峯村は部屋に入って早々、出待ちの女の子たちからもらったプレゼントを漁り始める。連絡先が書いてあるファンレターを探す。
「あった」
メールアドレスの下にプリクラも貼ってあった。ギャルっぽいが手紙には大学生だと書いて合った。未成年では何かとまずいのでちょうど好都合だ。早速彼女のアドレス宛てにメールを送る。数分もたたないうちに返信があった。半信半疑の彼女に電話番号を教えてもらう。ホテルのロビーまで降りて、電話をかけた。
「大丈夫、本物だよ。声わかるでしょ。このへん地元なの? 一人暮らし? うん、うん、良かったら今から会える?」
北川がついて来ていることに気がつかなかった。背後から現れた彼は、いきなり携帯電話を取り上げて、通話を切った。
「何すんだよ」
「峯村さんこそ何やってるんだよ。お客さん誘い出してどうするつもりだったの。未成年だったら犯罪になっちゃうよ」
「狭い部屋をお前に使わせてやろうと思ったんだよ。何ならお前も誰か連れ込めばいいだろ」
見たことも無いくらい鋭い目をしていた。
「部屋、戻ろ」
「おい、引っ張るなよ」
「いいから」
逆らえない力で峯村は部屋へ連れ戻されたい。シングルベッドの上に放り出される。
「何すんだよ!」
「そんなに性欲持て余してんなら言ってくれればよかったのに」
「は?」
「そのへんの女の子じゃ満足できない癖に」
「えっ」
ベッドに片足を乗り上げた北川に、峯村は髪の毛をつかまれ無理やり上を向かされた。
「峯村さん、ひどいことされないと興奮しないでしょ」
「!」
峯村は目を見開いて固まった。
「お、お前、覚えて……」
顔がみるみる紅潮する。今更蒸し返されるとは思いもよらなかった。
「はぁ? 忘れてるとでも思ってた?」
馬鹿にしたように北川は言う。
「だ、だって」
「やりすぎたこと反省したから黙ってただけで、全部覚えてるに決まってるじゃん」
「そんな」
峯村は肩を小突かれ、ベッドに肩を沈められた。
「わ」
すぐに起き上がろうとするが、北川が体重をかけてのしかかってきたので動けなくなった。手足に乗っかられて封じられる。
そして北川はいきなり峯村のシャツを上まで捲り上げたかと思うと、脇腹に顔を埋める。
「え? あっ!」
肩に思い切り噛み付いた。
「い、いたっ」
足をバタバタさせて抵抗する峯村を抑えつけたまま、柔らかい肉の部分を探してあちこち噛み付く。
「いたい痛いいたい!」
「嘘つき」
北川は冷たく言い放つ。
「どうせ気持ちいいんでしょ? こういうことされると。普通の女の子とやったって勃たないんじゃないの?」
「そんなことっ」
しかし北川は無視して峯村の下半身に手を伸ばした。パンツの上から急所を鷲掴みにされて、峯村は蒼褪めた。それは愛撫とは呼べないくらいの強さでぐいぐい締め付けられる。
「や、やめっ」
「いや? 感じてるくせに」
破かれるんじゃないかという勢いで着ていたものを剥ぎ取られた。貧相な体つきが室内の間接照明に晒される。
「あぁっ」
峯村のそれは直接指で数回扱かれてあっというまに上を向いてしまった。また以前のように自慰をさせられるのかと思ったが、今回は違った。北川はそのまま手を離さず峯村を追い詰めていく。
「ちょ、離……あっ」
相方の手でイかされるのは耐えられない。
「やめ」
もがく峯村に苛立ち、北川は頬を平手で打つ。
「ひっ」
二度、三度と乾いた音が狭い部屋に響いた。
「うぅぅ」
赤くなった頬を抑えてうめく峯村に、北川は言う。
「うるさいな、大人しくしてよ。あの時はイイ顔してたじゃん」
尖った乳首を加減なしで捻る。
「んんっ」
意地悪な刺激に、峯村の濡れた欲望は反応して震える。それが愉快で北川は両方の乳首を力を込めて捻り潰す。
「ん、んぅっ」
「俺、あの時の峯村さんの顔、あれから何度も思い出してオナニーしてたよ」
北川の言葉に峯村はかぁっと顔を赤くして目を閉じた。なかったことにしていたのは自分だけだったのだ。
北川は従順になった峯村の細い足首を掴んで、左右に大きく広げた。
「えっ」
自分でも触れたことのない奥まった場所に指を突っ込まれた。
「ひぁぁ」
北川の指は、弾力を確認するように、人差し指と中指を出し入れする。
「あっ、あ、あぁっ」
時々中を抉り回す。
「ひ、ぃ」
峯村は痛みと未知の畏れに我を失っていた。目を閉じることもできず、北川の色のついた髪の毛を見つめる。一度指を引き抜かれて、思わず安堵の息を吐き出したところへ、熱い塊が押し付けられた。
「えっ?」
いつのまにか滾っていた北川のそれは、峯村の意思とは関係なく強引に押し入ってくる。
「う、くぅっ」
北川は半分ほど自身を埋め込ませ、包み込む温かさに感心した。
「すご」
舌で唇をぺろっと舐めずり、そこからは全身を好き勝手に揺さぶられた。全身がバラバラに千切れそうな感覚に陥る。
「も、やめ。あぁ、あっ、あぁ……!」
峯村は懇願する。体がバラバラにもぎ取られたような痛み。それでも性的興奮はおさまることなく、だらだらと射精しているのを見て北川は、
「この、ヘンタイ」
と、嘲笑った。
「何でなの、峯村さん」
焦燥しきった峯村の上で、汗ばんだ肌の感触を味わっていた北川は言う。
「今まで長い間うまくやってきたんだから、俺のこと嫌いなら嫌いでいいけど、ちゃんと話しあって、サヨナラしたいよ」
「なんだよそれ」
「こんなふうにするつもりじゃなかった」
北川は頭を抱える。
「バカじゃねーの?」
「どういう意味」
「お前の思い通りにはならない。お前にコンビの終わらせ方を決めさせない」
北川がぐっと怒りを飲み込むような息遣いが聞こえてきて、峯村はびくっと身を竦める。
「俺は、こんなにティースプーンを大事に思ってるのに、なんでそんなこと言うんだよ!」
「う、うるさい。とにかく、終わりは俺が決める!」
「っ!」
挑発されて北川は咄嗟に腕を振り上げた。だが殴らなかった。ぐっとこらえてシャワーを浴びに行った。
峯村は目を閉じ、深い溜息をついた。体のあちこちに痛みが走る。でもそれより胸の方が痛い。舌打ちをして目を閉じた。
浴室から出てきた北川は、だいぶ冷静になったようだった。
「峯村さん、寝たの?」
峯村は答えない。
「今入ってる仕事は今まで通りやるから」
そう言って隣のベッドに移って横になった。
峯村は歯を食いしばって寝たふりを決め込む。今は一ヶ月先までの仕事しか知らない。それから先はどうするというのか。
東京に帰った次の日も峯村は表面上は何も変わらないように振る舞った。北川も同じだった。仕事に支障はなかったが、峯村は内申で既に北川が事務所にコンビ解消の件を話しているのではないかと疑っていた。けれども恐ろしくて確認できない。
楽屋に座っていた峯村の前に、北川が入ってきて正面から顔を合わせた瞬間、峯村は反射的に目をそらしてしまった。
しまった。思わず……。
峯村は舌打ちをした。すると、北川の顔つきが変わった。
「峯村さん、ネタ合わせしよ」
黙って立ち上がると、強い力で腕を引いて人気のないところへ連れていこうとする。
「ど、どこ行くんだよっ」
北川は答えない。乱暴に、狭い小道具倉庫に放り込む。峯村は床に尻餅をつく。
「おいっ」
立ち上がろうとしたが北川は許さない。
「峯村さんが悪いんだよ」
「はな、せっ」
「静かにして」
ぐいと強い力で髪を引っ張られる。
「何で俺を怒らせるの?」
「く」
「ほんとかわいくない」
北川は吐き捨てるように言った。
「ったりまえだろ」
掠れた声で峯村は言い返す。
「あんな顔するくせに」
「!」
無理矢理峯村の目の前に北川の腰を突き出された。北川はもう片方の手で器用にベルトを外し、ボタンフライデニムのボタンをはずしながら命令する。
「しゃぶってよ」
「えっ」
冗談かと北川を見上げたが、少しも笑っていない。耳をぎゅうと捻られた。
「いぁっ」
千切れるんじゃないかと思い、急いで命令に従う。口を開けて北川のそれに舌を這わせる。先端を口に含むとやっと北川は耳を掴んでいた力を抜いた。
気持ち悪くて吐くかもしれないと思ったけれど、意外に平気だった。ただ、こんなことはしたことがないから、どうしていいかわからない。まだ勃っていないから舌を動かして舐めたり吸ったりしているうちに勃ち上がって来た。
「時間ないんだから、早くイカせて」
後頭部をぐいと押され、喉の奥まで突っ込まれた。咳き込みそうになる。だが北川は許してくれず、こらえて口腔内の粘膜を擦りつける。
「ん」
それが気持ちよかったのか、押さえつける手は離して目を閉じた。峯村は上下に頭を動かして唇で扱く。荒い呼吸が頭上から聞こえて来た。同じリズムを繰り返すうちに北川の腰が揺れ、峯村の喉に打ち付けるよう激しく動かす。
「……う……っ」
イク瞬間、峯村は慌てて放す。びしゃっと口元と手のひらが濡れた。そのショックに峯村は呆然とする。
満足気なため息をついたのは北川だった。汚されて歪んだ峯村の顔を見下ろして、よくやく北川は満足したようだった。
「北川さーん、峯村さーん、どこですかー? そろそろ打ち合わせしたいんですけどー?」
遠くで作家の声が聞こえる。
北川は黙ってジッパーを締め、身支度を整える。北川はインナーの裾で顔を拭って、何とかトイレに駆け込めるくらいの状態にした。
「俺が先言って喋ってるから」
「うん」
峯村がトイレに行くと、幸いなことに誰もいなかった。勢い良く出した水で顔と手を洗う。髪もびしょびしょに濡れた。目の前の鏡に映った自分の顔を見て、ぐっと奥歯を噛み締めた。
何やってるんだろう、俺。
楽屋にあった誰かのタオルで顔を拭いていると、作家と一緒に北川がやって来た。
「峯村さん、今日のネタ、歯医者の前半だけにしよう」
「……歌に入る前のボケまでってこと?」
「そう」
「わかった」
それしか言葉を交わさなくてもきっちり舞台をこなせるくらい今まで経験を積んできた。その関係を北川は簡単に手放そうとしているのだと、峯村は悔しくなる。
舞台を終え、帰り支度をする峯村は、脇腹にある薄い傷に気がついた。昨日嬲られた痕のひとつだ。北川をちらっと見る。彼は少しも気づかないで後輩たちとのお喋りに興じている。
峯村はそっと傷跡を指先で撫でた。
じわっと下半身に熱が集まる。
北川の嗜虐性をさんざん身にしみてなお、峯村は恐怖を感じたことは一度もない。ただ、痛みと恥ずかしさと快楽がないまぜになって絶望する。
今は自分の言動が逐一北川を怒らせている。それでいい。彼の関心が峯村に向かっているということだから、残る痛みのぶんだけ安心出来る。
昔もそうだった。本当に怖いのは誰も自分に関心を抱かなくなること。痛めつけられたほうが嬉しいと感じるなんて、おかしいかもしれないけれど。コンビを解消されるくらいなら、このほうがずっといい。
それからも峯村は事あるごとに北川を挑発した。カッとなる度、北川は峯村を嬲る。見える場所こそ傷つけないけれど、乱暴に。まるで暗黙のルールがあるように。
誰も彼らの変化など気にもとめないと思っていたけれど、勘のいい神藤はある時峯村に聞いた。
「あのさぁ、北川と何かあったの?」
「え。なんで?」
なるべく平静を装い、峯村はとぼけた。
神藤は言いにくそうに言葉を選んで言う。
「んー、なんかぁ、最近あいつずっとイライラしてるだろ。お前にぎゃーぎゃー絡むことも少ない気がして」
「さぁ、そっか?」
「気のせいか」
「気のせいだろ。何もねーよ」
きっぱり言い切る。
「そっか」
神藤はそれ以上追求しなかった。代わりに、
「ま、コンビのことはコンビにしかわからないもんだよな」
と、ぽつりと言った。以前、神藤・阿川に対して同じことを峯村も思った。もう三年もたったから良いかと、聞いてみる。
「前に、阿川が一緒に住んでた彼女いただろ。覚えてる?」
すると、神藤の方から言った。
「あー、俺のこと敵視してた女だろ」
「えっ、知ってたの?」
峯村は驚いた。
「知ってるよ。偶然会った時にすごい目で睨まれたんだから。あんな女がとうまく行くはずねーよ。別れて正解」
思い出したように神藤は笑った。
「へぇ、その割にお前らって、仕事以外では一緒に遊んだりしないくせに」
「しないよ。今更」
神藤は言った。
「一緒に飯食ったり買い物行ったり、そんなの高校の時さんざんしたし、今更一緒にする必要ないから。今の俺らは舞台で漫才してりゃ十分だよ」
自信たっぷりに言う神藤の顔を、峯村はまじまじと見つめた。養成所の頃、彼らの関係を羨ましいと思った気持ちを思い出した。
視界の端に大きい人影が入り込んでちらりとそちらに目をやると、小豆沢と目があった。
「お、久しぶり。お疲れ」
「お疲れっす」
以前のことを気にしているせいか、それ以上話しかけてくることはなかった。
ほんと、外からじゃ、わかんないもんだよな。
峯村はひそかに小さくため息をついた。
彼らティースプーンの関係も同じく。
夜のライブの前説の仕事が終わって家に帰って休んでいると呼び鈴が鳴った。こんな夜中に誰だろうと思いつつ、警戒心なくドアを開けると、さっきTV局前で別れたはずの北川が立っていた。
「北川?」
俯いている相方の顔をのぞき込む。目が合った。思わず殴られると思い、身を竦めた。
だが違った。
「え」
突然抱きしめられた。
「わ、何だ? どうした?」
たずねたも北川は何も言わない。
「やめろよ、人に見られるだろ!」
抱きしめられたまま体重を後ろへ移動して、何とかドアの中へ入る。
「北川!」
突然、峯村は彼に口づけられた。びっくりして目を見開いた。
初めてだ。キスなんて。
それも触れるだけの。
「ど、どうし」
北川は黙って啄むようなキスを繰り返す。
「ちょ、何か言え、よ……あっ」
指の腹で胸の突起を撫でられてぞくっとした。こんなふうにやさしい手つきで触られることも初めてだ。
「あっ、えっ」
まるで、恋人にするみたいな行為。混乱する。けれども体は素直に反応してしまう。いつのまにか忍び込んだ手のひらにシャツの下で肌を直接撫でられては、抵抗するにもちっとも力が入らない。押し付けられた玄関の壁に何度も後頭部がぶつかるせいで、余計に目眩がする。
「や、あ。ぁ」
勝手に甘い声が漏れてしまう。恥ずかしい。自分の声じゃないみたいだ。がんばって地声を取り戻す。
「やだ、北川、やめろよ!」
耐えきれなくなって全身でもがく。驚いた北川は首筋に埋めていた顔を上げた。
「や」
もう一度キスされそうになって、峯村は北川のシャツの半袖を掴んだ。思わず、背中に手を回して縋ってしまいそうになる衝動を堪えた。
けれど、
「も、だめ……」
限界が訪れて、峯村はとうとう泣き出した。
縋ってでも、捨てられたくないのは自分の方。コンビ解消なんて絶対いやだ。いやだ。
「いや、だ、ぁ……」
両目から涙がぼろぼろと、今まで我慢してきた気持ちと一緒に溢れた。
「ど、どうしたの?」
北川はようやく喋った。うろたえる。七年一緒にやって来て峯村が泣くところを見るのは初めてだった。どんなに痛めつけても今まで泣いたことがなかった。声を上げずに涙を流す相方の姿にわけもわからず胸が締め付けられる。
「キスがそんなに嫌だった?」
「やだよ!」
峯村は叫んだ。手のひらで目元を拭いながら、とぎれとぎれに訴える。
「キスとか、そういうふう、に、されると、言いたくないこと言っちゃいそうになる」
「言いたくないこと?」
「お、俺は、お前がよく喋るとこに救われてるって思ってるとか」
「え」
「よく見たら、お前、結構見かけかっこいいから舞台で滑ってる時のギャップが最高に面白いとか、言いたくない」
「峯村さ」
「他の、外野の奴らにどう見えてるか知らないけど、俺の方がほんとはお前に頼ってて、緊張して前へ出れない時に助けられてたり、出番前にお前が見えないと不安で焦るなんて、絶対に絶対に言いたくないって、思って、たのにっ」
「峯村さん、ごめん。ごめんね」
涙で濡れた頬を舌で舐めとる。ちゅっと音を立てて吸う。濡れた唇にも吸い付いた。上唇をなぞるように舐め、下唇をしゃぶる。
「んぅ」
峯村は甘い声を漏らす。
「峯村さん、好き」
北川はうっとり囁いた。
「今まで、さんざん酷いことしてきて信じられないかもしれないけど、俺は、本当は、出来る事ならやさしくしたいってずっと思ってた。だって、峯村さんが好き、だから。大好きだから」
北川は注意深く気持ちを伝える。
「ねぇ、お願いだから、やさしくさせてよ」
「う」
峯村は頭の中が溶けそうな気がして目を閉じた。北川はキスを続ける。歯の間に潜り込ませた舌先で上顎をくすぐり、舌を絡める。腰のあたりがぞくぞくして峯村は眉根を良さる。下腹部がむずむずする。
「あっ」
北川の手が短パンの中に滑り込んだ。足の付根をそっと撫でられる。
「ひぁ」
くすぐったくて声を上げた。北川の手はさらに服の上から中心を揉みしき、するっと短パンを脱がせた。
「あっ」
外気に晒される隙もなく北川は雁首を掴んだ。
「ふぇぇ」
北川は何の迷いもなく舌で先端を絡めとった。割れ目をつついて、捻じ込む。
「んぁぁ」
咥え込まれて、峯村は声を抑えられなくなった。飲み込まれるんじゃないかというくらい深く吸われ、快感に息が止まる。
「あぁ、あ、あ。やぁぁ」
声が恥ずかしくて両手で口を抑えて喘ぐ。
「峯村さん、かわいい……」
見とれて北川は呟く。誘われるようにもっと深いところへ指を這わせ、ひくひく蠢く粘膜にそっと触れた。
「ひぁぁ」
峯村の背中が大きく跳ねた。以前は無理矢理突っ込んだ指を、今度はまわりを柔らげるように沈めていく。
「ん、ふぅ」
前回は痛みだけだったが、今は見知らぬ感覚が体の奥に走る。ゆっくり少しずつ指の出し入れする。おかしくなりそうで、峯村は訴える。
「も、や」
「イヤ?」
北川は眉をひそめて聞き返す。
「やだ、こわい」
峯村は北川の背中に手を回して縋った。
「何で。痛くしてないでしょ?」
「やだ。わかんなくなる。こわい。もっと」
「もっと? どうして欲しいの?」
「き、きつくして。痛くていいから」
北川は目を丸くして、それから肩を竦めた。
「峯村さんて、ほんっと、ヘンタイだよね」
そう言いながら、北川は口元に笑みを浮かべていた。そして一度峯村の上半身を抱き起こした後、乱暴に頭を掴んでうつ伏せに床へ押し付けた。
「ぅぐ」
後ろから覆いかぶさるように腰を押し付けた。すでに柔らかくなったそこへ熱いものが深く進んで行く。
「くは、ぁ」
「気持ちいいの?」
峯村は黙ってうなずいた。
「ん。変な、でも、イイ。」
北川は求められるまま動く。
「峯村さんの、こんな、顔、知ってるの、俺だけで、いい、から」
「お、お前だって」
峯村は言った。
相方の残酷な本性は自分だけが知っていればいい。
「俺も、好き。前から、ずっ、とっ」
峯村はなりふり構わず北川の背中に全身で縋った。
端からみたらわからないだろうけれど、お互いの、それぞれに歪んだ部分の形が、ちょうど重なり合うように出来ている。
若手芸人でごった返す狭い楽屋に入るなり、北川が駆け寄ってきた。
「峯村さーん!」
「なんだよ。またブログが荒らされたか」
「ちがうよ、聞いて聞いて。俺ね、こないだのオーディション受かったんだって」
「こないだ?」
峯村は荷物を壁際に下ろしながら考える。結果の出てないオーディションの覚えがない。
「あ、俺一人で行ったやつね。映画の」
北川が付け加えた。
「あ」
そういえばそんな話があったことを思い出した。映画の脇役のオーディションに数人の芸人が呼ばれて行ったのだ。体格的な条件があったので、峯村は背丈が足りなかったため参加しなかった。映画の仕事など貰えるはずがないと思っていたのですっかり忘れていた。
「えっ、まじで? おまえが?」
心底驚いて聞くと、北川は胸を反らせた。
「へへー。すごくない? 俳優さんもいっぱいいたのに俺受かったんだよ」
「へー」
「やだなぁ、もっとテンションあげてよ! すごいことなんだから」
「わかってるよ」
峯村は面倒くさそうに答えた。
「あ、もしかして心配してる?」
「何が」
「大丈夫! 俺はちゃんと芸人だってこと忘れないよ。峯村さんの相方だからね!」
北川のはしゃぎっぷりに峯村は呆れた。
「あったり前だ。どうせ脇役だろ、調子乗りすぎんなよ」
「そうだけどさー、こういうとこでちゃんとコンビ間の絆を確かめたほうがいいじゃん。峯村さん、すぐ不安になるくせに」
「……うるさいな」
峯村は赤くなって口を尖らせる。
それを見て北川はにやにや頬を緩める。
「何だよ?」
睨みつけると、北川は言う。
「俺、やさしくしたいっていつも思ってるんだけど、峯村さんてほんとに可愛くてたまんないから、結局泣かせたくなっちゃうんだよなぁ」
「うるせぇ」
真っ赤になった峯村は言い捨てて、舞台用に着替えた後、軽くネタ合わせを済ませる。
「ティースプーンさん、スタンバイお願いしまーす」
「はーい」
舞台袖で並んできっかけを待つ。
「今日も一日がんばろうね!」
「がんばってるよ」
峯村は答えた。
売れるか売れないかわからないけれど、大丈夫、心配することはない。俺たちはこんなに深いところで繋がっているのだから、十年後も二十年後もコンビでやっていける自信がある。
出囃子に合わせて二人は床を蹴飛ばすように、勢いをつけて舞台へ上がった。
終