次の恋はきっと

 日曜の朝、約束の時間になっても、成瀬千夏は二階の自室でごろごろしていた。
 窓の外は秋晴れ。
涼しい風が色づいた庭木を揺らしている。
成瀬の元々茶色っぽいふわふわした髪も一緒に揺れていた。
 階段の下から、母親の声が聞こえてくる。
「ちーなつーっ、準備出来た? もうすぐ要平ちゃん来ちゃうわよ」
 成瀬は大声で言い返す。
「やーだよー。休みの日がもったいない」
「何言ってんの。要平ちゃんがせっかく連れてってくれるんだから有難く思いなさい」
「ひっでー。何で母さんが勝手にオレの予定決めてんだよ」
 成瀬は気立ての良い大型犬のような顔立ちを歪めて、ぶつぶつ文句を言った。
 要平ちゃんというのは、三軒隣に住んでいる久保要平という高校生のことだった。成瀬とは子供の頃から遊んでいる仲だったが、彼は頭の出来が良く、都内でも有名な進学校に通っている。生憎、成瀬はそれほど勉強が得意ではないので、家から近い公立中学でのんびりすごしている。夏休みを過ぎてもまだ、受験生だという自覚がなかった。
それを心配している母親は、何かと息子をやる気にさせようと日々画策している。今日も久保の学校の文化祭に成瀬を連れて行ってほしいという約束を独断で取り付けていたのだった。環境の整った有名校を目にすれば、良い刺激になるのじゃないだろうかと、淡い期待を抱いていた。
 当の成瀬は、家でぼうっと過ごす予定だった日曜日を潰されてとても不機嫌だった。
 そこへ、玄関からチャイムの音が聞こえてきた。
「こんちわー」
 久保の陽気な声が聞こえてくる。
「いらっしゃい、要ちゃん。ごめんなさいねぇ、あの子ったらグズグズしてて」
 母親と二人で階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「成瀬、要ちゃん来たわよ」
 ノックもなく、成瀬の部屋のドアが開けられた。
「やだって言ったじゃん」
 床の上に転がって駄々をこねる成瀬に、久保はにやりと笑顔を浮かべた。
「おばさん、オレがやりますよ」
 そう言って彼は、成瀬の背中を足で踏みつける。
「ぐぁっ」
「おい、起きろ」
「ひでー、要平兄ちゃんが苛める」
「中三にもなってナニ子供みてーなこと言ってんだ。行くぞ」
「イテテテテ」
 ぐいぐい体重をかけられて、成瀬は呻いた。
「わかった。わかったって」
 しぶしぶ立ち上がる。
 久保は外見だけではとても頭が良いようには見えない。大柄で眉が太いせいか、気の良い兄貴という容貌だった。
 成瀬はTシャツの上に薄いパーカを引っ掛けて、家を出た。
久保の通う稜家高校までは電車とバスを乗り継いで通学する。時間がかかるので、彼は毎朝早く家を出ている。成瀬とは生活時間帯がずれているため、小学校を卒業してからここ数年はそれほど会う機会がなかった。それでも、昔と変わらず成瀬を小さい子供扱いする久保の態度が、成瀬には照れくさかった。
「こっちこっち。早く来いよ」
「わかってるよ」
 有楽町線の駅からバスで十分ほど、神社の前のバス停で二人は降りた。
 普段は洒落ッ気ひとつない男子校だが、文化祭の日だけは、通学路からすでに近隣の女子高生で溢れていた。
 ゆるやかな斜面の上に建つ校舎には、学校のキャッチフレーズが盛り込まれた大掛かりな入場門が飾られていた。何度も改装を重ねられた後が残る校舎の中の壁面も、生徒達によって工夫を凝らして彩られている。
 各教室で、クラスや部活動の出し物や展示の呼び込みが行われている廊下を久保の後について歩いていた成瀬は、往生際悪く文句を言う。
「あーぁ、何が悲しくて男子校の文化祭なんか来なきゃいけないんだよ」
 久保は冷たく返す。
「おばさんはオレみたいなエリートコースを歩ませたがってんのに、息子がこれじゃ不憫だね」
「そっちこそ、どこがエリートだか」
 成瀬は憎まれ口を叩いた。
「ねぇねぇ、腹減った。朝からなんも食ってない」
 階段を昇りながら久保は顎に指を当てる。
「んー、うちのクラスは食品やってないからなぁ。三組がやってる女装喫茶でいいか」
「げっ。なにそれ」
 聞きなれない単語を聞いて、成瀬は呻いた。
 確かに母親の言うとおり、名門校の設備は違う。各教室に空調もプロジェクターもそろっている。けれど、やはり男子校なんかロクなものじゃないと思った。
「ははは。昨日行ってみたけど、食いもんはまともだったぜ。けっこう似合うやついるんだよな」
 そのあたりの感覚が麻痺しているのか、久保は気にせず笑い飛ばした。
「要平兄ちゃんのクラスは何やってんの?」
「演劇」
「えっ。要平兄ちゃんも?」
「おう、主人公の恋敵の騎士役をダブルキャストでやってるぜ。これがPTAのお母様方に大喜びされちゃってさぁ」
「えっ。もしかしてそれも男子だけでやってるわけだよね……サムイなぁ。他になんか面白いことないの?」
 成瀬はうんざりしつつ聞いた。
「あとは部活のほうがあるけど」
「部活って何やってるだっけ?」
 そういえば、今まで彼から部活の話を聞いた記憶がない。入っていないのか、それほど熱心に参加していないのだと思っていた。
「……写真部」
 久保は、何故か一瞬の間を置いて答えた。
「写真部ぅ? へーぇ、地味だね」
 意外な答えに成瀬は笑った。
「余計なお世話だ」
 久保は軽く応じて、差し掛かった階段の上を指差した。
「せっかくだから見ていけよ」
「いいけど」
 連れて行かれた教室は、東校舎の端にあった。模造紙に「写真部」とそっけなく書かれた教室は、作品展示という目立たない企画だけに閑散としていた。
 受付の机では二人の生徒が暇そうに、どこかの出店から買ってきたらしいクッキーを食べていた。
「よ、はよー」
「おはようございます」
 久保に向かって丁寧に挨拶したところを見ると彼らは後輩のようだ。学年章の色が違う。三年の久保は赤、彼らは青だった。
「おじゃましまーっす」
 成瀬は彼らの前を通り過ぎて教室の中へ入って行った。
 仕切りパネルで作られた道に沿って、大きく引き伸ばした写真がフレームに入れて掛けられて展示してある。それぞれの写真の下には撮影者の名前が貼ってあり、一人で複数展示している生徒もいた。
 風景もあれば、人物もある。
 特にテーマはなく自由課題となっていた。
「要平兄ちゃんの作品はどれ?」
 成瀬は久保を振り向いて聞いた。
「あー、これこれ」
 彼が指差した作品は入り口から近いところにある、気持ち良さそうに寝ているゴールデンレトリバーを写したものだった。
「あっ、これ、大田さんちのリタじゃん。手抜きしてんなぁ」
「うっせぇ」
 久保の文句を背に、成瀬は端から順にパネルを眺めていった。
 しょせん素人たちの未熟な写真には、取り立てて何の感動もわいてこなかった。
 ある一枚の写真の前に立つまでは。
 そこには、校舎の屋上ではしゃぐ稜家の生徒達が映っていた。
 学年章がバラバラだが、仲良さそうに笑っている彼らのその中央に、ひと際、きれいな顔の生徒いた。
 稜家のストイックな制服がすらっとした体つきに良く似合っている。
さらさらの黒髪に大きな黒目。細い顎。
 パネルの前に立っていた成瀬は、体ごと吸い込まれそうな感覚を覚えた。
「お、いいセンスしてんじゃん」
 後ろから久保に声をかけられて、成瀬はびくっと背筋を伸ばした。ドキドキして聞く。
「な、なんで?」
 彼は答える。
「これ撮ったヤツ、けっこう有名な賞取ったりしてさ、卒業後は写真で食っていけるんじゃないのって言われてるくらいなんだぜ」
「ふぅん?」
 パネルの下には「三年五組/桧山遙」と撮影者の名前が記されていた。
 しかし、成瀬に写真の良し悪しは分からない。撮影者にも興味はない。
 被写体が気になっただけだ。
「ここに写ってる人は?」
「それ? 全員うちの部員だな」
「今いる?」
 聞くと、久保は受付の二人に声を掛けた。
「おーい。他の奴らはどこ行ったんだ?」
 彼らは首を傾げる。
「さぁ。みんな昼飯はここで食うって言ってましたけど」
「桧山先輩なら実行委員会にいると思いますよ。あの人、いろいろ掛け持ちしてっから」
「あーそう」
「探してきましょうか?」
「いや、いい。いい」
 久保は手を振った。
 会話を聞いていた成瀬はがっかりしたけれど、もしこの場にこの人がいたとしてもどうもできない。
 久保の横でひそかに拳を握り締める。
「決めた。オレ、この学校にしよ」
「しよって、お前、自分の成績わかっていってんのか?」
 久保は面食らって聞いた。
 いくらまだ秋とはいえ、成瀬の成績がな成瀬か厳しいことくらい、成瀬の母親から聞かされていた。
 しかし、彼は根拠のない自信を見せる。
「いいじゃん。目標決めたんだから。願書出すのはこれからだし、志望校決めるのは自由でしょ?」
 突然の心変わりに久保は呆れる。
「まぁ、やる気になったのはいいことか。もしかしたら奇跡が起こるかもしれないしな」
「でしょ?」
「必死で勉強したらの話だぞ」
 久保は冗談半分といったところで言った。
「さて、と。腹が減ってたんだったろ? 女装喫茶行くか」
「えー、やだぁ」
「いいから来いって」
 いつまでもその写真の前から動こうとしない成瀬は久保に引きずられ、呼び込みで賑わう廊下を歩き出した。

 入学式の頃は満開だった桜も散って、窓から見える桜並木はぽつぽつと黄緑色の新芽が吹いている。
 担任からも無理だと言われていた稜家高校に成瀬は、まわりの心配をよそに奇跡的に合格した。スタートはだいぶ遅れていたが、真面目に塾に通った甲斐があったというものだ。
 稜家高校の紺色のネクタイは、自分でも思っていたより似合っていた。
 入学式、オリエンテーション期間と続き、ようやく通常授業一日目の放課後、打ち解け始めていたクラスの生徒たちから、放課後、成瀬は声をかけられた。
「なぁ、成瀬は見学行いかないのか?」
 帰り支度を済ませ、教室を出ようとしていた成瀬は聞き返す。
「え? どこに?」
「部活だよ、部活見学」
 級友らは、ひらひらと一枚のプリント用紙を掲げて見せる。
 そういえば今朝、担任教師から入部届けを配られていた。新入生は二週間以内に提出することになっている。それまでどこの部を見学しようと自由になっていて、迎える先輩たちは各自趣向を凝らした企画を用意しているということだった。
 しかし成瀬は興味なさそうに手を振った。
「オレはいいよ。決まってるもん」
「へぇ、どこに入るんだ?」
「写真部」
 きっぱり答えた。
 級友らは顔を見合わせる。
「えぇー、意外。地味なとこ選ぶなぁ」
「この学校に写真部なんかあったっけ?」
 失礼なことを言われて成瀬は頬を膨らませる。
「あるよ。あるに決まってるじゃん」
 言い切った彼の後ろで、ガタンと席を立つ音がした。
「あ、あの」
「ん?」
 振り向くと、ぽっちゃりした気の弱そうな級友が立っていた。
「成瀬くん」
 呼びかけられても、成瀬は咄嗟に彼の名前が出てこない。
「えっと、ごめん、まだ」
「藤井だよ、藤井」
 級友の一人が素早く小声で耳打ちした。
 藤井という名らしい彼は言う。
「成瀬くんも写真部に?」
「え。う、うん」
「良かった。オレもなんだ」
「あ、そうなんだ」
 成瀬は今まで一言も喋ったことのない、印象に残っていない彼に突然親しげに言われて少し困った。
 しかし、彼は熱心に言う。
「オレだけじゃ無理だって思ってたんだ。でも、二人だったらどうにかなるかもしれない」
「無理って、何が?」
「写真部を作ること」
「へ?」
 成瀬はきょとんと聞き返す。
「何で。写真部ってあるじゃん」
「ないよ」
 彼はあっさり答えた。
「え?」
「なくなっちゃったんだ。去年まではあったんだけど」
 にわかには信じがたいことを聞いて、成瀬は叫ぶ。
「うそ!」
 去年の文化祭に存在した部が今はないだなんて信じられない。
 久保からも聞いていない。
「何で? どうして?」
 成瀬は軽いパニックになりながら聞いた。
 それには藤井も答えられない。
「わ、わかんない……でも……」
 考え考え、彼は言う。
「顧問だった神原先生なら知ってるかも。オレもこれから職員室に新部設立届もらいにいこうと思ってるんだけど、良かったら成瀬君も一緒に」
「行く!」
 成瀬は叫んだ。
 ちゃんと自分で確かめるまで信じられない。
「う、うん」
 肯く藤井を追い越し、成瀬は教室を飛び出して、二階にある職員室へと向かって駆け出した。

 放課後の職員室の中は忙しなく教師が動き回っていた。誰一人、ひょっこりやってきた新入生には目もくれない。
「神原先生ってどこ?」
「えーっと、あ、あの人」
藤井は、スチール製のキャビネットが並んだ壁の奥のほうを指差した。そのあたりには、長い髪を夜会巻にした三十代の色っぽい女性教師がいて、他の生徒と何事か話し込んでいるところだった。
年を取った男性教師ばかりのこの学校では珍しいタイプだ。職員室を見回しても、彼女が一番若い女性のようだった。さぞかし生徒に人気があるだろう。
二人は近くまで行ってうろうろしながらしばらく待っていたが、彼女と生徒の話が終わる様子がない。
我慢できなくて、成瀬は呼びかけた。
「お話中すみません。神原先生」
彼らはぴたりと話を止めた。
「あら、私?」
 彼女はようやく新入生二人に注意を向けた。
「あの、オレら一年なんですけど、ちょっとだけ質問してもいいですか?」
「いいわよ。なぁに」
「写真部、何でなくなっちゃったんですか」
 思いも寄らなかった質問内容に、彼女は目を丸くした。
「あらあら、入部したかったの?」
「はい!」
 成瀬と藤井は元気良く答えた。
 藤井は言う。
「あの、オレ、中学でも写真部だったんで、ないんだったら新しく作りたいんですが」
 隣で聞いていた成瀬は驚いて藤井を見る。
 勝手なことを言わないで欲しい。
「じゃなくて、作るより前に、去年まであったじゃないですか。何でいきなりなくなっちゃったのか説明してください!」
 すると、彼女は困惑して、隣にいた生徒に向かって尋ねる。
「どうする? 夏浦くん」
 尋ねられた彼はあからさまに迷惑そうに眉を潜めた。
「オレに聞かないでくださいよ」
「だってアナタに関係あることじゃない」
「え?」
 成瀬と藤井は顔を見合せる。
 どういうことか意味がわからない。
 その生徒は新入生を一瞥して言う。
「そんなん決まってるでしょ」
「決まってるって?」
 聞いたのは成瀬だった。
 彼は答える。
「この学校に写真部はもういらない」
「な」
 成瀬は思わずカッとなった。
「そんなの、何でアンタが決めるんだよ!」
 神原は苦笑して宥める。
「落ち着きなさい。あのね、最後の部長はここにいる夏浦司くんだったのよ」
「は?」
 成瀬はぽかんと口を開けた。
 夏浦は言う。
「そうだよ。写真部はオレがつぶしたんだ。だから、今さら復活させようなんて余計なことするな」
「はぁ? アンタ何言ってんの?」
 傲慢な物言いに成瀬は怒り心頭だった。
 彼はそれ以上議論する気はないというふうに、顔を背けて出入り口の方向へ歩き出していってしまった。
成瀬は、慌ててその後を追う。
「ちょっと待ってよ」
 廊下に出て、彼の背中に向かって叫んだ。
 そして、やっと思い出した。
 あまりにも印象が違うからわからなかったけれど、あの顔は見覚えがある。
「アンタ、あの……!」
 去年、あの写真に写っていた人だ。
 成瀬は少なからずショックを受けた。
きれいな顔のつくりは同じだけれど、あの写真の中で笑っていた面影は何一つない。
「今年の一年は質が悪いんだな」
 振り向いた彼は表情ひとつ動かさず言い捨てて、成瀬の目の前を去っていった。

 本当のことを言えば、成瀬にとって写真部なんか、なくても困らないものだったのだ。
 あの人に会いたかっただけだ。部活がダメなら直接探しに行くつもりだったけれど……。
 大きく深いため息が出る。
 あんな人だったなんて思わなかった。
 せっかく見とれるくらいキレイな顔していても、冷たくて、意地が悪い。
 何でオレはこうまでしてあの人に会いたかったのだろう?
 ムカムカする気持ちを抱えて職員室の前へ戻って来た成瀬は、ドアの前でうなだれている藤井の姿を見つけた。
「藤井」
「あ、成瀬くん」
 彼は無理をして、冴えない笑顔を浮かべた。
 がっかりしているのは彼のほうも同じだ。写真部へのこだわりもまっとうな理由からなのだから。
 成瀬は気の毒になって彼の丸い肩を叩いた。
「お前さぁ、こんなことであきらめんなよ。どうしても写真部やりたいんだろ?」
「う、うん」
「別にあの先生が顧問じゃなくたっていいんじゃねーの。かわりに探そうぜ。出来ることがあるなら、オレ、協力するから」
 成瀬は力強く言った。
 藤井は青白い顔をかぁっと赤くする。
「そうだよね。担任に相談してみる。あと、規定の人数集めるためにポスター貼ったり」
「うんうん。それいいな。やろうぜ!」
「やる! ありがとう!」
 成瀬の激励に、藤井はとても感激したようだった。
 けれども、成瀬の気持ちはおさまらない。
二人で教室へ戻ってカバンを取って、一目散に校舎を出た。

家へ帰ると久保が待っていた。
「おかえり」
 彼は勝手に成瀬の部屋の中でCDをかけ、ベッドに腰掛けて雑誌を読んで、ゆったりくつろいでいた。
 大学生になった彼は、今月から成瀬の家庭教師として雇われることになった。
稜家に入ってしまった後は、もう勉強なんかどうでもいい成瀬だったが、レベルの高い学校の授業についていけなくなることを心配して母親が頼み込んだのだ。
 久保のほうも、バイトを探す手間が省けて好都合のようだった。週に二日は成瀬の帰宅時間に合わせてこの家にやって来ることになっていた。
「要平兄ちゃん!」
 顔を見るなり、成瀬は叫んだ。
「何で黙ってたんだよ!」
「何が」
「写真部、なくなったって」
 すると、久保は初耳とばかりに驚いた。
「え?」
「知らなかったの?」
 久保は黙って頷く。
 成瀬は力が抜けて、その場に座り込んだ。
「えー。何だよそれ」
「なくなったってどういうことだ?」
「二年の夏浦って人が部長で、つぶしちゃったって」
「……あぁ……」
 それを聞いて、彼は難しい顔になった。
 しばらく俯いて、それからしみじみ呟く。
「んー、まぁ、それもあるだろうな」
 成瀬は呆れる。
「なにそれ。どうしてだよ」
「オレが卒業したあとの話は知らねーよ」
 久保はさっぱり突き放した。
 成瀬はむっと口を尖らせる。
「そんなんおかしくない? うちのクラスの奴なんか中学んときから写真部で、高校でも入ろうって決めてたんだって。かわいそうだと思うだろ?」
「うんまぁ」
「何なの? あの人。勝手に部をつぶしちゃうなんてさ」
「そういうなよ。まさかお前が写真部に入りたいとは思わなかったな。オレとしてはなくなってくれて良かったよ」
「はぁ?」
 成瀬はわけがわからなかった。
 久保の、珍しく煮え切らない態度が気落ち悪い。彼は、懐かしそうに、痛い場所を探られたように目を細めていた。
「あいつ、元気だったか?」
 成瀬は答える。
「知るか。すっげ冷たい態度だったよ。性格悪そ」
「そうかぁ?」
 久保は苦笑した。
「そんなことないだろ。夏浦はカワイイよ。お前なんかよりずっと」
「ひっで。要平兄ちゃん、どこでバイトしてると思ってんだよ。オレの味方してくれたっていいんじゃない?」
 成瀬は思い切り舌を出した。
 夏浦に違う面があることくらい彼だって知っている。あの写真の中の彼は今とは別人のように明るく笑っていた。
 あの人に会いたかったのは、ひと目惚れみたいなものだ。
 鮮やかな恋に似ていた。
 そのためなら、勉強だって何だって出来るような気がしたんだ。
 久保は言う。
「オレら三年が満場一致で部長を夏浦に任せたんだ。その後でつぶそうがどうしようが知ったことじゃない」
「でも、オレは納得いかねーよ! 別に、写真が好きとか写真部をどうしてもやりたいってわけじゃないけどあいつにジャマされるのはイヤだ」
「ジャマしてるわけじゃないだろうよ」
 久保は面倒くさそうに髪をかき回す。
「夏浦には夏浦の理由があったんだろ」
「……?」
 久保の言うことは最後までちっともわからなかったけれど、成瀬は覚悟を決めた。
 あの人の思い通りになんか絶対なるもんか。

 翌朝、成瀬は意気込んで三年の教室に向かった。最上階にある教室は無言の圧力を放っている。くたびれた制服の先輩たちが歩く廊下を、成瀬は緊張した面持ちで横切った。
 三組の出入り口から中を覗こうとすると、すかさず背の高い生徒に見咎められた。
 彼は真新しい制服と緑の学年章を見て言う。
「お、一年坊主じゃん。なんか用か?」
 成瀬は大きく息を吸い込んだ。
「夏浦って人、呼んで下さい」
 何か言われるかと思ったが、意外にあっさりと彼は窓際に向かって大声を出した。
「おーい、夏浦」
 夏浦の席は窓際だった。
 ぼんやり外を見ている彼の姿が見えた。
 彼は成瀬の姿を見ると、不審そうな顔をしてまた顔を背けた。
「うわっ、無視された!」
 ショックを受ける成瀬に、呼び出した生徒は吹き出した。
「呼んできてやろうか?」
「いいです。こっちが行きます」
 成瀬は勇気を出して、三年の教室の中へ入っていった。
 奇妙な闖入者に、生徒達はいっせいに彼に注目する。夏浦が一番最後に、成瀬のほうへ顔を向けた。
「夏浦……先輩!」
「何か用?」
「アンタが何て言おうと、オレら、やっぱり写真部作ることにしましたから」
 成瀬は宣言した。
 言ってしまうとすっきりした。先輩に向かって偉そうな口調に、級友たちはますます好奇心を込めた視線で二人を見ている。
成瀬は勝ち誇って、座っている夏浦を見下ろした。
「ふぅん」
 彼はつまらなそうに尋ねる。
「お前、一人っ子?」
「は?」
 成瀬は面食らった。
「そ、そうですけど」
 夏浦は薄い唇の端を歪める。
「だろうね。いかにも甘やかされて育ったって感じ」
 成瀬はむっとした。
「うるさいなぁ。アンタはどうなんだよ」
「オレは姉と妹がひとりずつ」
「あー、いかにも子供の頃おままごとしてたって感じっすね」
 言い返して、成瀬はふんぞり返った。やりこめたつもりだったが、夏浦は少しも表情を変えずにさっきの級友を呼びつけた。
「吉田」
「なに?」
 近寄ってきた彼に向かって言いつける。
「こいつ、つまみ出してよ」
 彼は夏浦と成瀬の顔を見比べて聞いた。
「おいおい、一年。あの夏浦を怒らせるなんて何したんだぁ?」
 犬の頭でも触るように、成瀬のふわふわした頭を軽くはたいた。
「触んなよっ」
 成瀬は噛み付かんばかりの勢いで手を振り払う。
「おっ。カワイイ顔して凶悪だなぁ」
「イーっだ」
 子供みたいな捨て台詞を残して教室を出て行った彼に、締められたドアの中から、どっと笑い声が聞こえて来た。
「くっそう」
 床を蹴るように廊下を歩いて、成瀬は二年の教室に戻って来た。
教室の前で藤井が待っている。
「成瀬くん!」
 仏頂面の成瀬に心配そうに駆け寄る。
「だ、大丈夫だった?」
「別に」
 成瀬はぶっきらぼうに答えて教室の中へ入った。席についてもまだ藤井は着いてくる。机の横に立ったまま、何か言いたげにもじもじしていた。
「他に部員見つかりそう?」
 成瀬が聞くと、藤井は首を横に振る。
「もう部活決めちゃってるって人多いみたい。あと、よそのクラスの人には声かけずらいし」
「まぁ、そうだよな」
 気の弱い藤井じゃなくても、他のクラスは敷居が高い。同じクラスだってまだ顔と名前が一致してないのだから。
 担任の佐々木に相談したところ、現在顧問を受け持っていない教師は殆どいないので頼むにしても兼任になり、快く引き受けてくれる教師は少ないだろうという。
佐々木自身も卓球部の顧問であり、兼任はあからさまに迷惑そうで、かわりに二年の授業で声をかけてみると言ってくれた。
 道のりはかなり険しい。
 気落ちしているだろう藤井は、黙り込んで立ちっぱなしだった。
「?」
 まだ何か用があるのかと成瀬が見上げると、彼は、
「あ、あの、ちょっと待ってて!」
 と、言って急いで自分の席へ戻っていった。そしてサブバックの中から見慣れない皮の袋を抱えて来て、成瀬に向かって差し出した。
「何これ?」
「これ、成瀬くんにあげる」
「え?」
 成瀬は、袋を開けて驚いた。
 有名なメーカーの、一眼レフカメラだった。
 慌てて成瀬はそれを突き返す。
「何言ってんだ。こんなんもらえねーよ」
 しかし藤井は決して受け取ろうとしない。
「いいんだ。たいしたもんじゃないから。オレは他にもたくさん持ってて、これは最近買ったけどあんまり使ってないやつだから」
「たいしたもんじゃないって……?」
 成瀬は眉をひそめた。
 新品同様のカメラは、いかにも高価そうだ。ボディがピカピカ光っている。
 藤井は言う。
「こないだ、自分のカメラは持ってないって言ってただろ? これから部を作るんだったら必要だから」
「そうだけど」
 成瀬は罪悪感にちくりと胸が痛む。
「……別に、お前のためにやってるわけじゃないから……」
 小さくぼそっと付け加えた。彼の純粋な気持ちを利用しているようで、申し訳ない。
「フィルムの入れ方、わかる?」
 そんなことなど知らないで、彼は聞いた。
「えっ、わかんない」
 成瀬は素直に首を横に振る。
 カメラといったら、携帯電話についているものか、簡単なデジタルカメラくらいしか触れたことがない。
「じゃあ、オレがやるから見てて」
 藤井はそういって、丸くて柔らかそうな手のひらを広げた。
「あ、うん」
 成瀬はカメラを渡す。藤井はカメラの裏の蓋を開けて、器用にフィルムを入れる。
「これはオートマチックだけど、オレがいつも使ってるのはマニュアルなんだ」
「マニュアルってもっと難しいのか?」
「うん。ちょっとコツがいるんだ。でも仕上がりが全然違って面白いよ」
「へーぇ」
成瀬は感心して、彼の器用な手つきを眺めていた。
「はい、出来た。成瀬くんの家ってどこなんだっけ?」
「うち? 東池袋」
「そうなんだ」
「お前は?」
「武蔵境。中央線」
「へぇ、学校までちょっと時間かかるな」
「うん。でももっと遠い人いるしね」
 稜家高校は人気があるので県外から通ってくる生徒は多い。二時間かけて通っている生徒も珍しくなかった。
「今度、うちに来てくれる?」
 彼は恐る恐る聞いた。
「え?」
「あの、無理だったら全然いいんだけど、その、今まで撮った写真とか見てもらえたら嬉しいなって」
 恥ずかしそうに言う藤井に、成瀬は肯く。
「うん、行く。行くよ」
「ほんと? 良かった」
 言葉どおり藤井は、本当に嬉しそうに笑っていた。

 成瀬が三年の教室を出て行った後、吉田や他の同級生は笑いながら夏浦のまわりに寄ってきた。
「なんだあの一年生、元気だなぁ」
「仔犬みてー。かわいいじゃん」
 夏浦はその整った容貌からひそかに人気があったものの、どこか近寄りがたい雰囲気があった。そこに軽々と踏み込む新入生の大胆さが彼らには羨ましく映った。
 しかし、夏浦は眉を潜める。
「どこが。かわいくなんかねーよ」
 確かに顔はカワイイかもしれないが、体の作りはたいして夏浦と変わらない。その上、中身はとても生意気だ。
 吉田は笑う。
「夏浦は年下興味ないもんなぁ」
「どういう意味だよ」
「去年の三年とばっかつるんでたじゃん」
「そういえばそうだよなー。今でも先輩達と遊んだりしてんの?」
「……あんまり」
 夏浦はひとこと答えて押し黙った。
 吉田は慌てて言う。
「そりゃそうだよな。あんなことがあったんだから」
「あっ、ゴメン!」
 急に級友たちは気まずい空気に固まる。
 この場をどう切り抜けたものか困っていた夏浦に、他の生徒が声をかけた。
「夏浦。後で職員室来いって。神原ちゃんが呼んでた」
「オレ?」
 何のことか思い当たらなかったが、夏浦は昼休みに職員室を訪れた。
 彼女は近くの店からまとめて取っている出前の弁当に手をつけず、夏浦を待っていた。
「先生、オレに何か用ですか?」
「こないだ、一年生が来て、話続きになっちゃったじゃない」
 神原は言った。
「桧山くんのことだけど、私のとこにご両親が度々連絡してくださるの。その度に話が出るのよ。北斗くん、なかなか家から出たがらないんですって」
「あぁ、知ってます」
 夏浦は頷いた。
 桧山北斗は遙の弟で、今年から高校生になったはずだった。兄とは違う、中高一貫教育の学校に通っているので受験をしなくとも進学しているのだが、殆ど登校していない問題児だった。
「でも、他人があんまり口出すことじゃ」
「知ってるって言うことは、話してるんでしょう? 」
「電話なら」
 彼女はくだけた調子で言う。
「やっぱり。あの子は前からアナタにだけ懐いていたものね。たまには遊びに行ってあげてよ。交通費くらいだったら、先生、協力するから」
 そう言って、財布から千円札を数枚出して夏浦に押し付けた。
「いや、それはいいですよ。あいつのところにはちゃんと行きますから」
 夏浦は肩をすくめてそれを返した。

 久保に見張られて参考書の問題を解いていた成瀬は、最後の問題を終えてシャーペンを放り出した。椅子の背もたれに寄りかかってぐいっと両腕を伸ばす。
「ふわー、つっかれたぁ」
 早速久保は問題集を回答と照らし合わせる。
「どれ」
 ノートに書いた解答を赤いボールペンでチェックしていく。
 成瀬はそろそろ集中力が途切れたようで、ぐるぐる首をまわしたり、目をぎゅっと閉じたり開けたりしていた。
「目が疲れんだよね」
 ふらふら椅子を立ち上がって、カバンの中を探り始めた。
 今日、藤井からもらったカメラが入っている。帰って早々久保がいたので、今まで弄る時間がなかった。
 改めてカバーをあけて、両手に持ってみる。
 どっしりとした重さがあった。
 答えあわせを終えた久保も目を向けた。
「どうしたんだ、それ。買ったのか?」
「もらったんだ」
 成瀬は言った。
「もらったぁ?」
 久保が派手なリアクションを取ったので、成瀬は少し不安になった。
「えっ。これそんなに高いモン?」
「そりゃけっこうするだろ」
 久保が即答したので、成瀬は考え込む。
「あいつんち金持ちらしいんだよなぁ。確かにボンボンっぽいところあるし。だからまぁいいかと思って」
「いいのかぁ?」
 久保は疑わしそうに真新しいカメラを見つめる。
「タダより高いものはないっていうぞ」
「えー、それは大袈裟だよ」
 成瀬は笑った。
 久保は大きな手のひらを向ける。
「寄越してみろ」
 成瀬は素直に久保にカメラを渡した。
 久保はレンズカバーをはずし、レンズを覗く。
「懐かしいな」
 成瀬をファインダーの中に収めて、メモリを調節してピントを合わせる。
「フィルム入ってんのか?」
「うん。入れてもらった。撮ってみてもいいよ」
 そう言われて、久保はシャッターに手をかけて半押しにしる。成瀬は撮られることを意識した笑顔を浮かべた。
 しかし、すぐに久保はカメラを下ろしてしまった。
「やめた」
 つまらなそうに、カバーを戻して成瀬に返す。そして机に向き直った。
「遊んでないで勉強すっぞ、勉強」
「はーい」
 成瀬はしぶしぶ机に戻って、真っ赤に直されたノートを見て顔をしかめた。

 知らないことを知るということは面白い。
 最初はあまり興味がなかったけれど、藤井からカメラの使い方を教えてもらうことはなかなか楽しかった。
 土曜日の授業が終わった昼過ぎ、彼らは屋上の出入り口に繋がる階段の踊り場に座り込んで喋っていた。
「部の話、なんか進展した?」
「ううん」
「そっか」
 成瀬は眉間に深いシワを寄せた。
 彼も知り合う同級生にはなるべく声をかけるようにしている。しかし一向に成果はない。完全に行き詰っていた。
 ところが、藤井は妙に明るい声で言う。
「でも、オレはもういいかと思ってるんだ」
「いいって?」
 成瀬は驚いた。
「写真撮るのは一人でも出来ることだから、部活っていう形にはこだわらなくてもいいような気がしてきたんだ」
「そう、なのか?」
「うん。それより……もっと大事なことがあるもん」
「え?」
「成瀬くん」
 藤井は急に成瀬の正面に向き直った。いつも目を合わせないで喋る彼に珍しく見つめられて成瀬はうろたえる。
「な、何?」
「あのさ」
 彼は、一生懸命言葉を探していたが、うまく見つからないようだった。
「あの……」
彼はとうとう諦めて、飲み込んだ言葉の代わりに成瀬の肩に手をかけた。
「?」
 何をされるのかと、成瀬は驚いて固まる。
 するとみるみるうちに彼の顔が傾いてきて、間近まで迫ったのは一瞬の出来事だった。
「うわっ!」
 咄嗟に成瀬は片手で藤井の顔を押し返した。
「何してんだよ!」
「成瀬くん!」
「えぇっ?」
 力ずくで抱きしめられて、成瀬はパニックに陥った。
 藤井は重い体で成瀬の上に覆いかぶさってくる。普段は大人しい藤井が、見たこともない必死の表情をしている。
「や、やめろよ! やめろって!」
 成瀬は叫んだ。
 唇を求められ、制服の上から体をまさぐられて、成瀬はジタバタ抵抗した。
「何してんだ、よっ」
 いくら目立つ顔立ちをしているとはいえ、成瀬はこんな目に合ったことはない。一度、電車で痴漢をされたことはあるが、その時は相手の男を殴って大喧嘩になった。女扱いされたのはその一度きりだ。まさか、藤井がそんな目で見ているとは思いもよらなかった。
 成瀬は怒りや恐怖というより、ただひたすら驚いていた。
 そこへ、揉み合う二人の前に、冷静な声が降ってきた。
「何してるんだ?」
「あ」
 屋上のドアが開いて、階段の上で組み敷かれている成瀬を上から覗き込んだのは、よりによって夏浦だった。
 藤井ははっと我にかえる。
 成瀬から体を離して、後ずさった。
「ご、ごめんなさい! オレ、オレ……」
 自分のしたことが信じられないらしく、混乱した彼は立ち上がり、一気に階段を駆け下りてその場を逃げ出した。
「あっ、このやろう……!」
 成瀬は怒鳴ったものの、追いかける力は出てこなかった。
 座り込んで呆然としていた。
「大丈夫か?」
夏浦に尋ねられ、成瀬は顔を蔽う。
ショックは遅れてやってきた。
悔しさに、涙がこみ上げてくる。
「おい、こんなことで泣くなよ」
 夏浦は言った。
「泣かねーよ!」
「そうか。泣かないか」
「うん……」
 成瀬は肯いた。
 泣きたかったけれど、何とか我慢した。
 女じゃないんだから、こんなことくらい。
 歯を食いしばってこらえることにした。
 夏浦は彼の前に手を差し出す。
「立てるか」
「え」
「血が出てる」
「あ」
 気がつかなかったが、藤井の爪で引っかかれたのだろう。
 頬に指で触れてみると、うっすらと血がついた。細い傷が出来ていた。
「くそ」
 痛くも痒くもない。けれど、とても情けなくなって、成瀬は再び込み上げてくる涙を懸命にこらえる。

 静まり返って誰も通らない廊下を成瀬は夏浦に手を引かれて歩いた。
 何か言おうとしたが、何を言っていいかわからなかった。
 夏浦も何も言わなかった。どこに連れて行かれるのかもわからない。繋いだ手がひんやりと冷たくて、興奮して火照った成瀬には心地よかった。
 着いたのは、東棟の端の教室だった。
 空き教室のようだが、成瀬は一度来たことのある気がした。
「……?」
 ぼんやり室内を見回していると、夏浦は言った。
「ここ、元部室だから誰もこねーよ」
「元?」
 成瀬は思い出した。
そうだ、ここは去年の文化祭で訪れた写真部の部室だった。
 使用されなくなった今は室内の一角が暗幕で覆われている。ダンボールも山積みのままだった。床には埃が分厚く積もっている。
「そのへんに座ってろ」
 促されて、成瀬は壁際にひとつ転がっていた椅子を起こして腰掛けた。
 夏浦はダンボールをひとつ空けて、その中からウェットティッシュと絆創膏を取り出した。昔の備品が残されているらしい。
「保健室行くほどじゃないよな?」
 手当てしてくれようとしていることを知って、成瀬は拒む。
「自分でやるよ」
 そういったが夏浦は無視した。
ウェットティッシュで成瀬の頬の傷から滲んだ血を拭った。ただの引っかき傷だったので血はとっくに固まっている。絆創膏のフィルムを剥がし、よれないように丁寧に貼ってやった。
 絆創膏の貼られた成瀬の顔は、子供っぽさが増していた。どこかのやんちゃ坊主のようだ。
夏浦の細い指でそっと触れられているうちに、成瀬はだんだんと落ち着いてきた。じっと自分の足元を見つめる。
「あの、助けてくれてありがとうございます」
 夏浦は頷いただけだった。
「オレ、かっこわりーッスね」
 そういうと、彼は小さく笑った。
ほんの少し、はじめて笑顔を見せた。 
 あの写真の中の笑顔には程遠いけれど。
成瀬は足元がふわっと浮くような、あの時の感覚を思い出した。そしてとんでもないことに気づいて成瀬は息を吸い込んだ。
「あ、あれっ?」
「どうした」
 夏浦は聞いた。
「な、何でもない! ない!」
 成瀬は慌てて椅子に座ったまま、前かがみになる。
 気づいたら、勃起していた。
 そんなバカな。藤井に襲われたせいで?
 違う違う。そっちじゃなくて。
いやどっちという問題じゃない。目の前にいる夏浦から何とか気づかれないようにしなくてはならない。
どうにかしようと頭を巡らせたが、無駄だった。
 夏浦はいきなり成瀬の下腹部を掴んだ。
「あっ」
 成瀬は石のように固まった。
「ぎゃー、触んなよ!」
 触られたら、余計に固くなってしまう。
「興奮がおさまらないんだろ」
 夏浦にはとっくに気づかれていたらしい。
 藤井のせいだと思われたなら冗談じゃない。
 成瀬は必死で下半身を静めようと努力する。
「う、このっ」
 しかし、一度反応してしまった体は、意思でどうにかなるものでもない。トイレに駆け込んで出してしまったほうがいいものかどうか悩み始めた。
 だが、夏浦は言う。
「大丈夫」
「えっ」
 意味がわからなくて成瀬は聞き返した。
 しかし夏浦がファスナーを下ろし始めて、やっとその意味に気づいた。
「うわっ」
 他人に勃っているものを触られたのは初めてだった。
 夏浦のきれいな指が下着を越えてそれに絡みつく。冷やりとした感触に成瀬は眩暈を覚えた。
「先輩!」
 からかわれているということはわかった。
 何故なら、目の前の夏浦は人をバカにしたような冷たい顔をしていたからだ。
 さっきの藤井の様子とは全然違う。
 それに、彼の手つきはためらいがなく妙に慣れていた。まるでそうすることは、初めてではないように……?
「う」
 半勃ちだった成瀬のものは、触られて完全に上を向いてしまった。夏浦はそれを軽く握って上下に動かし始めた。
「あ、ちょ……っ」
 成瀬はぎゅっと歯を食いしばって堪えようとするが、甘く背中を通り過ぎる快感に抗えるはずがない。
 自分でやるのとは全然違う。
 他人の手で擦られたら、簡単に射精してしまいそうだった。
「だ、だめ! 夏浦さん!」
 成瀬は両手で夏浦の腕を掴んで、押し返そうとする。
 しかしろくに力が入らない。
 腰の辺りがぞくぞく震える。
 夏浦は言う。
「さっさと出しちゃえば」
「や」
 成瀬は小さく首を振った。
 この快感をすぐに手放してしまうなんてもったいない。
 もう少し、もう少しだけ夏浦の手に身を委ねていたかった。
 気持ちいい。夏浦の指が気持ちいい。
ぎゅっと手を閉じて射精を我慢している成瀬を見て、夏浦はもう片方の手も使うことにした。
片手の親指と人差し指でくびれのあたりをきゅっと締め、もう片方の親指の腹で雫を滲ませている先端を撫でる。
「あ」
 さっさとイケと言わんばかりの手つきに、成瀬はついに降参するしかなかった。
「うぅ……!」
 夏浦の手の中に勢いよく射精した。
 全て吐き出し終えるのを待っていた夏浦を、成瀬は体重を預けるように押し倒した。
「わ、おい」
 仰向けに倒されて、夏浦は叫ぶ。
「あぶねーだろ」
 頭をぶつけるかと思った。
 腕をついて咄嗟にかばったが、息をつくまでもなく、成瀬の唇が夏浦のそれに重なっていた。
「!」
 乱暴なキスに夏浦は身じろいだ。
 成瀬は成瀬の薄い唇を吸って舌を差し出した。柔らかい口腔内をめちゃくちゃに探る。
「んん」
 荒々しくも甘い感触に夏浦はぎゅっと目を閉じていた。
 ようやく成瀬が唇を離したときには、完全に息が上がっていた。
「何してんだよ」
 夏浦の言葉に、成瀬は言う。
「誘ったのはアンタのほうじゃん」
 あんなことをされて、その気になるなというほうが無理だった。
 成瀬は赤い顔で夏浦を見下ろした。
「誘ったわけじゃ……」
 夏浦は目をそらす。その目元はキスの余韻か、少し潤んでいて色っぽかった。
 成瀬はごくりと生唾を飲み込んだ。
 こんなんじゃおさまりがつかない。
「先輩。触らせて」
 ストレートに頼んだ。
「やだよ」
 夏浦は答えた。
「お願い」
 成瀬は真っ赤な顔をぎゅっと首に顔を埋めた。
「…………」
 夏浦は答えない。
 いくら頼んだところで無駄だということはわかった。
「先輩」
 だから、頼むのはやめた。
「あ」
 成瀬は夏浦のシャツの裾を引き出して、その下へ手のひらを滑り込ませた。
「あっ、この」
 抵抗しようとする夏浦の肩は体重をかけて抱きしめた。
「わっ」
 バランスを保てなくなった彼は、尻餅をついて座り込んだ。背は夏浦のほうが高いが、細い。力では成瀬が勝つことは明らかだった。
簡単に、床に押し倒した。
 脇腹を撫でたら、夏浦はびくっと体を揺らせた。
 ここが弱いんだ。
 それを知った成瀬は同じ場所を何度も撫でた。その度に夏浦の体はびくびく震える。そのうちに、めくりあげたシャツの下で薄い色の乳首が固くなっていることに気づいた。
 そこへそっと触れてみる。
「あ」
 思わず夏浦は小さな声を出した。
 その声がもう一度聞きたくて成瀬は狙いを二つの突起に定めた。
 両方の乳首を指で摘んで引っ張る。
「い」
「痛い?」
「イテェよ!」
 なじられて、成瀬はむっとした。
 力を加減して手のひらで撫でるようにする。顔を伏せて、もう片方に軽く吸い付いた。
「う」
 今度は夏浦は文句を言わなかった。
 舌でくすぐるように舐めると、口元を引き結んで堪えている。
 さっきの声が聞きたいのに。
 焦れた成瀬は、右手を下半身におろしていった。片手でベルトをはずすのはなかなか難しい。再びもがいて足を動かす夏浦を抑えながら、一気に下着の中へ手を突っ込んだ。
「おいっ」
 青ざめる夏浦を無視して、下腹の茂みを越えて、それを掴んだ。
「やめ、ろ」
「やめない」
 成瀬は自分が触られた以上に興奮していた。
 どうしたら感じてくれる?
 どうしたらさっきみたいな声を出してくれる?
 オレは簡単にイッちゃったけど、他人の扱いはまだわからない。
 女の子とキスだってしたこともないんだ。
 焦りながら、成瀬は恐る恐る手を動かした。
「あ」
 しかし心配するほどじゃなかったようだ。
 夏浦は感じやすいのか、成瀬の手の中で少しずつ形を変えていった。
「あ、あ」
 我慢していても夏浦は吐息混じりに声を上げていた。
 成瀬はその顔に見とれた。
「先輩。すげー、エロい顔」
はっと気づいて恥ずかしくなったのか、手で顔を隠そうとする。
「隠さないでよ」
「うるさいっ。どけっ」
 夏浦は怒鳴った。
 この期に及んでまだ頑なな態度に、成瀬はカッとなって、手のひらに軽く力を込めた。
「うっ」
 夏浦は息を飲む。
 気がつけば、成瀬のものも再び固くなっていた。腰を深く乗り上げて、夏浦のそれに押し付ける。
「!」
「あ、すご」
 成瀬は思わずつぶやいた。
 粘膜が触れ合って、頭の奥がじんとしびれる。 理性なんか働かなくなる。
 それは、夏浦も同じようだった。抵抗をやめて、必死で顔を隠す。その仕草さえ色っぽくて、成瀬はそのまま射精することしか考えられなくなっていた。
 熱いものを触れ合わせたまま、両手で扱く。
「あ、あぁ、ふぁ」
 夏浦はまるで子供みたいな高い声を上げて喘いでいた。たらたらと零れる透明な雫は、どちらのものかわからない。
「や、あぁ」
 交じり合って、ぐちぐちといやらしい音を立てていた。
 もっかい、キスしたいな。
 そう思ったけれど、夏浦は顔を覆ったままだ。
 その手をどけて、こっちを向いて名前を呼んで欲しいという願いはかなわない。
「あ、夏浦さん、夏浦……」
「あ、あ、あ」
 ついに夏浦は白い喉をのけぞらせて吐精した。その瞬間を目に焼け付けるように、成瀬も二度目の熱を放った。
「はぁ、は、ぁ」
 成瀬は力尽きて突っ伏したが、数秒もたたないうちに夏浦に押し返されて床に転がった。
 夏浦も荒い呼吸を繰り返しながら上半身を起こした。汚れた手や制服を見て顔をしかめる。横で弛緩している成瀬を一瞥して起き上がり、ウェットティッシュを容器から数枚取って両手を拭き始めた。
黙って身支度を整えている夏浦を、成瀬は寝転がったままこわごわ見上げた。
 さっきまでの色っぽい顔はどこへやら、彼は不機嫌そうな顔で腕時計をちらりと見る。
「正門閉まったな。裏から出るか」
「先輩」
 逃げられてしまいそうで、成瀬は慌てて起き上がって聞く。
「どうしてこんなことしたって聞かないの?」
 夏浦は振り向く。
「聞くようなことじゃない」
「え」
「勢い余っただけだろ」
 やはり腹を立てているらしく、夏浦は吐き捨てるように言った。
「ちがう!」
 成瀬は大声を出した。
「なにが」
「オレはアンタのことが好きなんだ」
 はっきり言った。
 言ってしまった。
 言葉がすとんと胸に落ちてきた。
 恋に似ているというのは間違いだった。
 恋だったんだ。一目惚れだ。
 あの写真の中のアンタを好きになって、会いたくてここまでやって来たんだ。
「好きなんだよ!」
「冗談だろ」
 夏浦は鼻で笑った。
「ホントだよ! ホントに……!」
 すると、今まで以上に夏浦は冷たい表情をした。
「本気なら尚更、聞きたくない」
 言い捨てて、彼は部室を出て行ってしまった。
 残された成瀬の小さな傷には絆創膏が張ってあったけれど、痛む場所は全然違う。
 胸の奥がずきずき痛んで、立っているのがやっとだった。

 家に帰った成瀬は青ざめた顔で、既に並べられた食卓を素通りして、部屋に上がろうとした。
「ごはん食べないの?」
 母親に呼び止められて、彼は答える。
「いらない」
 滅多に無い答えに、彼女は目を丸くした。
「珍しい」
 階段に足をかけて、成瀬は呻く。
「胸が……苦しい」
 母親は驚いた。
「えっ、病気? あら何その絆創膏。喧嘩でもしたの?」
「ちがう、けど」
 比喩でも何でもなく本当に胸が痛い。
 藤井に襲われた時だって、こんな気持ちにはならなかった。
 母は首を傾げて言う。
「なんだ。違うなら、これ、要ちゃんちに届けてあげて」
 用事を言いつけられて、成瀬は素直に従った。逆らう気力もなかったからだ。
 母が頼んだものは貰い物の有名店のフルーツケーキのおすそ分けだった。箱に入っていた三本のうち、一本を手近な袋に入れて渡された。
「おばさん、ここのケーキ好きって言ってたから」
「はぁい……」
 成瀬はカバンだけ置いて、制服のまま、家を出た。
 三軒隣の久保の家は明かりがついているが、両親がいつも遅いことは知っているので、彼だけ帰っているのだろう。
 チャイムを鳴らすと、玄関のドアが開いた。
「よ」
「これ、おすそ分けだって。おばさんに渡しておいて」
 成瀬は預かった袋を突き出した。
「さんきゅー」
 彼は受けとって、成瀬の様子に気がついた。
「ん? どしたんだ?」
 成瀬は俯いたまま、玄関に立っていた。久保が聞いたこともない、情けない声を出す。
「あのさ、笑わないでくれる?」
「何だよ」
「オレ、ふられた」
「えぇ?」
 久保は驚いて、目を白黒させた。
 成瀬は一度言葉にしてしまったら、ショックがじわじわとこみ上げてきた。我慢していた涙が後から後から湧き上がってくる。
「うぅぅ」
 泣きべそを浮かべる成瀬に、久保はうろたえた。
「おいおい、こんなとこで泣くなよ。中入れ」
 うなだれる成瀬を連れて、急いで部屋に連れて行った。
小学生の頃はよく遊びに来て、さんざんゲームをした部屋だ。物が雑然と溢れた様子は何一つ変わっていない。
 久保は成瀬を畳に座らせて、落ち着きなく廊下を出入りする。
「えっと、とりあえず麦茶飲むか?」
「いらない」
「あ、そう。オレは飲むよ」
 彼は台所から自分のぶんだけ冷えた麦茶を注いだコップを持ってきて、勉強机の上に置いた。そして椅子に座り、くるりと成瀬のほうを向いた。
「で」
 照れくさそうに咳払いをひとつして聞く。
「お前にそんなに好きな子がいるなんて知らなかったな。中学ん時の同級生か?」
 成瀬は答える。
「夏浦さん」
「……え?」
「オレ、夏浦さんが好きだ。好きなんだ」
 成瀬は一気に捲くし立てた。
 好きだから、意地になったり追いかけたりした。苦手な勉強もがんばった。
 こんな簡単なことに今まで気づかなかった。
 その挙句にふられてしまった。
 思わぬ名前を聞いて、久保は呆気にとられた。
「夏浦って、あの……?」
確かめて、それからいきなり笑い出した。
 成瀬は怒る。
「ひどい! 笑わないって言ったじゃんか」
「ごめんごめん」
 それでも笑い続ける久保を、成瀬はぎっと睨みつけた。
 仕方なく笑いを収めて彼は言う。
「だって、夏浦って、冗談だろぉ?」
「こんな冗談言って何になるんだよ」
 成瀬はむくれた。
 怒ったせいで、涙は止まってしまった。手で擦ったまぶたがひりひり痛い。
「まさか告ったのか?」
「うん」
 成瀬は真剣な顔で頷いた。
「うーわー」
 久保は困って視線を泳がせる。
「あいつ、何て言った?」
「聞きたくないって」
「そうか。かわいそうにな」
 彼はしみじみ呟いた。
「お前も、夏浦も」
「それ、どういう……?」
 どういう意味かたずねようとしたところで、どこかで携帯電話の着メロが鳴りだした。
 机の上に置かれていた久保のものだった。
「ちょっとごめん」
 彼は画面に表示された名前を見て、ひとこと成瀬に断ってから通話ボタンを押した。
「夏浦か?」
 その名前に驚いて成瀬は顔を上げる。
「え?」
 久保は視線で成瀬に黙ってろと合図する。
「どうかしたのか?」
 彼らが何を喋っているのか知りたくて、成瀬は耳を済ませた。
 しかし向こうの声は聞こえてこない。
「うん。うん。桧山んち? 遠いじゃないか。あぁ」
 久保の横顔をじっと見つめる。
 彼は深刻な顔で話をしていた。
「何もないよ。あいつに、何か出来る度胸があるとは思えない。お前が気にすることも無いよ。もし心配だったら、オレが行ってどうにかしてやるけど」
 それだけの、短い会話で久保は通話を切ってしまった。
 成瀬は聞く。
「夏浦さん? オレのことなんか言ってた?」
「何も」
「そう……」
 成瀬はうなだれた。
「でもありゃ、あっちも相当落ち込んでんな」
「オレのせい?」
 久保は曖昧に首を傾げる。
「さぁ、どうだろうね。あんな調子で桧山んち行って、余計へこまなきゃいいけど」
 心配そうに呟いた。
 成瀬は、その名前をもう何度も聞いていた。
 例の写真を撮った人だ。
 いやな予感が胸をよぎる。
 あの時楽しそうに笑っていたのは、彼が撮っていたからだとしたら……?
「桧山って、あの写真撮った人だよね? その人、夏浦さんと何か関係あるの?」
「えっ」
 久保は面食らった。
「それで、そいつんとこ行って慰めてもらいに行くってわけ?」
「……おまえ、知らなかったのか?」
 責める成瀬に久保は驚いていた。
「何を?」
 成瀬はわけがわからない。
 久保は言いにくそうに口を開く。
「桧山遙はもういないんだ」
 ますますわからなくて、成瀬は眉を潜めた。
「え?」
「いなくなったんだよ。高校三年の夏、台風の夜に自宅近くの海で行方不明になったままなんだ」

 時間帯のせいもあってか、夏浦と同じ電車から降りたのはにぎやかな中年女性のグループだけだった。小さな駅ビルを出て、海のほうへ歩いていく。
 町の中から直接は見えないけれど、絶えず海の気配を感じる町だった。
 昔からの住人も、移り住んできた人たちも、そこに愛着を持って暮らしているのだろう。
 小さい店が連なるごちゃごちゃと入り組んだ町を歩きながら、彼は携帯電話のメモリを手繰った。
 少し迷って、久保にかける。
 彼は気のいい先輩で、部活のことでは何かと頼りにしていた。
 桧山遥とも仲が良く、よくお互いの家を行き来していた。
「あ、先輩」
 ツーコールで久保はすぐに通話に出た。
「すみません。いきなり。これから桧山先輩の家に行くところなんです」
 電話の向こうから聞こえてくる久保の低い声は、久しぶりで懐かしい。
「はい。もう着きました。北斗の様子を見に行くんで、久保先輩から何か伝えることがあるかと思って」
 久保は、取り立てて興味なさそうに、何もないよと答えた。
『あいつに、何か出来る度胸があるとは思えない。お前が気にすることも無いよ。もし心配だったら、オレが行ってどうにかしてやるけど』
「いえ……そこまでは。じゃあ」
 夏浦は若干拍子抜けして通話を切った。
 何を期待していたのだろう。
深刻な声色では会ったけれど、内容に危機感はない。無責任とも言える言動だった。
 桧山遥が消えてからまだ一年もたたないのだから、随分冷たく感じられる。 
 それまでの記憶が生々しすぎて、夏浦は未だに実感がわかない。
 歩き続けるうちに、古い大きな家が見えて、生垣を正面までぐるりとまわり、石門の前でチャイムを鳴らした。
しばらくすると家の中から物音が聞こえてきて、ガラガラと玄関の戸が開いた。
 青白い北斗の顔を見て、夏浦は軽く手を挙げた。
「久しぶり」
「ほんとですね」
 北斗は皮肉とも取れる口調で応じた。
「ごめん。ほんとだよな」
 夏浦は申し訳なさそうに肩を竦める。
「来てくれて嬉しいってことですよ」
 彼は大人びたことを言う。
「どうぞ」
 促されるまま、夏浦は家の中へ入った。北斗の、痩せた背中を見つめて、居間へ続く廊下を歩く。
 北斗は高校一年生だから、ちょうど成瀬と同い年だ。健康的なあの後輩とは全く違うな、と夏浦は思った。
 昨日の出来事を思い出した。
生意気な後輩をからかうつもりが、夏浦のほうが痛い目にあってしまった。人肌に触れたのは久しぶりだが、特に欲求を感じたわけじゃない。あんなことはちょっとした遊びのつもりだった。
 だから、彼に気持ちをぶつけられて驚いた。
 好きだと言っていた。
 何故だろう。今まであの後輩に対しては、冷たい態度しかとっていなかったのだから、考えもつかなかった。
「オレが、悪いのか?」
 口の中でひっそりつぶやいた。
「何か言いました?」
 北斗が聞き咎めた。
「いや」
「座っててください。飲み物持ってきます」
「いいよ、何もかまわなくて」
「そのへんのもの、勝手に見てていいですよ」
 彼は楽しそうに台所のほうへ消えていった。
 曇り空のせいで室内が薄暗い室内に入り、藤で編まれた椅子に腰掛ける。ガラスのテーブルには、数冊の雑誌が置かれていた。どれも若者向けのサブカルチャー雑誌で、この古い家にはそぐわない。
 夏浦はそのうちの一冊を手にとって、ぱらぱらとめくった。
 北斗が見ろと言った理由がわかった。
 特集ページに、見覚えのある写真が大きく載っている。桧山遥が賞を撮った風景写真だった。わずか十八歳で消えた少年の才能を惜しむ記事と共に、小さな顔写真も載っている。
 久しぶりに、桧山遙の顔を見た。
 夏浦はそっとその写真を指先で触れた。
 雑誌の中で微笑む遥は遠い存在だった。
 ここ一ヶ月の間に、彼はこうしてメディアに取り上げられることが多くなっていた。詳しくは知らないがマスコミ関係の職についているという両親がいろいろ画策しているらしい。息子に対する思いを世間に訴えることで彼らの心が癒されるのなら、それはそれで仕方の無いことだと夏浦は思っていた。
 何しろ、死亡とも確認されていない。遺体は上がらない。
 跡形も無く、消えてしまったのだから後悔は残る。
「夏浦さん、りんごジュース飲める?」
 北斗は戻ってきて聞いた。
「うん」
「良かった。最近うちの親ろくに家に帰ってこないから、変なものしかなくってさ」
 彼はジュースを注いだグラスをテーブルに置いて、向かいの席に座った。
 夏浦は聞く。
「帰ってこないって?」
「普通の仕事に加えて、兄さんのことで取材とかあるんだって。ボクとは違って自慢の息子だったからね」
「取材ってそんなに?」
「マスコミってカリスマ作り上げるの好きだろ。兄さんみたいに若くて外見も良くて、しかも不幸なんて格好のネタみたいだよ。今度、明治通りの画廊で展示やるんだって」
「へぇ、そりゃすごいな」
 夏浦は感心して、りんごジュースを一口飲んだ。
 桧山遙の写真は日常の学校生活を写したものばかりだ。光に溢れて淡い色合いに彩られたそれらは、男子高校生が撮り溜めた作品にしては繊細で叙情的で、学生時代にノスタルジーを抱く大人たちから絶賛を受けていた。
 その美しい風景の中には、確かに夏浦も存在していたはずなのだ。
 氷がからんと音を立てる。
 北斗は続ける。
「でもさ、おかしいと思わない? もし兄さんが何事も無く大学生になっていて、プロのフォトグラファーになったとしても、これほど注目はされなかったはずなんだから」
「北斗」
「台風の日に海見に行くなんてバカなことして、悲劇的に祭り上げられちゃって笑えるよね。今思えばきっと、べろべろに酔っ払ってたんだと思うけど」
「北斗、いい加減にしろよ」
 夏浦はさえぎった。
 健全な学校生活の裏には、薄暗い秘密が隠されている。窓から差し込んでいる黄昏の陰影のように。
「学校行ってるの?」
 夏浦は聞いた。
 彼は短く笑って答える。
「たまに行ってる。元々たいして行ってなかったから気にすることじゃないよ。ボクがこの家にいなかったら、いろいろ困ることもあるじゃない?」
 彼は意味ありげに言った。
 夏浦は意味がわからず、眉をひそめた。
 北斗は兄がいなくなる前から、不登校児だった。優秀で才能も人望もある兄に比べてコンプレックスがあったのだろう。他人が見てもわかる両親のひいきの影でいつも縮こまっていた。
 彼は言う。
「安心してよ。わざわざ見張りにこなくても、あっちの写真はボクがちゃんと隠してる」
「見張りに来たわけじゃ……」
 言い返す夏浦に、北斗は立ち上がって、テーブル腰に手を伸ばした。
 冷たい手で頬に触れ、髪を撫でる。
 挑発するようなその表情は、兄のものと良く似ていた。昔はもっとガリガリで、気弱な少年だったのに。
 夏浦は振り払いもせず、言う。
「このごろ、急に似てきたな」
「そうかな」
北斗は首をかしげた。
 時々写真部の連中がここへ訪れると、遠くから見つめていた。だから、こんなふうに堂々とした喋り方はごく最近になってからのものだ。兄という枷が取れたせいだろうか。
「アナタには似てるほうがいい?」
 彼は絡み付くように夏浦の首に腕を巻きつけた。これは遥ではなく、弟だとわかっていても、こんなふうにされると、夏浦は桧山遥の肌や体温を思い出してしまう。

 いつも桧山遙は勝手で我侭だった。けれども、多少羽目をはずしても許される愛嬌を身につけていた。
 気まぐれからかわいがっていた後輩にいたずらを仕掛けるようになったのは何がきっかけだったか、誰もはっきり覚えていない。
 夏浦は三年生たちから実験みたいに体を弄り回された。
 ダンボールやカーテンで窓をさえぎった薄暗い部室で行われたそれは、煙草や酒と同じ程度の感覚だった。
 夏浦は、桧山の言うことなら何でも聞いた。
いつも命令を下すのは遥だったけれど、彼自身はあまり夏浦には触れてくれなかった。
ニヤニヤ笑って煙草をふかしながら、お気に入りのカメラで写真を撮っていることが多かった。
それがいつもせつなかった。
もし次に誰かを好きになるとしたら、今度はかなうことがあるのだろうか、と悲しみにくれていたことを思い出す。

 夏浦が家についた時には、八時をまわっていた。あの家は行き帰りだけで時間がかかる。
「ただいま」
 台所に入って冷蔵庫を開ける夏浦に、居間でテレビを見ていた妹が顔を上げた。
「おかえりなさい。あ」
「ん?」
「海の匂いがする」
「そうか?」
 夏浦は自分の匂いを嗅いでみたがわからなかった。
 それを聞いて、母親が顔を覗かせる。
「また桧山さんち行ってきたの?」
「うん」
 夏浦は冷蔵庫に皿ごとしまってあった夕食を取り出して、電子レンジに入れた。
「お母さん、あんまり言いたくないんだけど、あちらのお宅に伺うのは感心しないわ」
「何で」
「あのことがあってから、司までずっと落ち込んだままなんだもの。いくら仲の良い先輩だったからって、そろそろ元気出してもいいんじゃない?」
 レンジの中でぐるぐる回るプレートを眺めながら夏浦は答える。
 母親という生き物は、変なところで鋭い。
 昔から、訳もなく桧山遥を良く思っていなかった。
 北斗に会うたび、薄暗い闇の中に再び吸い込まれてしまいそうになることも見抜かれているようだった。
「大丈夫。オレは元気だよ」
「それはそうなんだけど……」
 母親は納得しない。
「あれから全く新しいお友達連れて来たりしないんだもの」
「そんなこと言われても。オレ、もう高三だよ? 家に友達連れてくるような年じゃないじゃん」
「そうかしら」
 年を取ってから子供を授かった彼女にとって、子供はいつまでも幼く見えるらしい。
 妹は知らんふりを決め込んで、TVに夢中になっている。
 言い訳が思いつかない夏浦を、電子レンジのタイマーの音がその場の沈黙から救ってくれた。

 月曜日、学校に行く足取りは重かった。
 教室には藤井がいる。もしかしたら休んでいるかもしれないと思ったが、彼は朝から登校していた。
 成瀬の方を決して見ないように、じっと机で固まっている。その丸めた背中を見て、成瀬はため息をついた。
 あの様子では、二度と藤井は成瀬に話しかけてこないだろう。写真部の話も立ち消えになってしまいそうだ。
あれだけ彼が夢中になっていたものを断ち切ってしまうのかと思うといたたまれない気分になるが、どうにもできない。
 あんなことになるまでは、親しく喋っていたのだから、さびしい気持ちが湧いてくる。
 しゅんとしおれている成瀬の様子に、隣の席の山口は聞いた。
「どうかしたのか?」
「別に」
 成瀬は笑って、教科書を広げた。
どうしようもない。どうしようもないんだ。
何度も言い聞かせる。
藤井だけじゃない。自分のことも、だ。
成瀬もまた夏浦に気持ちを拒絶されたのだから。
思い出しても恥ずかしくて泣きたくなる。あんなこと、しなければ良かった。
 叶わない想いは誰だって一緒だ。
「あの人はどんな気持ちなのかな」
 口の中でつぶやいた。
 三年の教室は離れているから、避けようと思えば二度と顔を見ないで済むのかもしれない。
 でも、それはなんだか惨めな気がした。
 いやだ。会いたいよ。
 笑ってくれなくても今まで通り普通に喋ってくれるだけでいい。
 自分でも無理なことを考えているとわかって、成瀬は絶望的な気分で数日を過ごしていた。
 しかし、悲観することはなかった。
 昼飯を買いに行った食堂で、成瀬は夏浦とばったり顔をあわせてしまったのだった。
「!」
 その姿を見つけて、成瀬は慌てて逃げ出そうとした。
 だが、先に夏浦が言う。
「逃げ足が遅い」
「えっ」
 予想外に明るい調子で話しかけられて、成瀬はびっくりした。週末、何度も何度も思い出していて苦しんだ顔から目をそらして聞く。
「……同情?」
「そうだな」
 夏浦は言った。
「そういう顔、オレもしてたのかと思うと」
 生瀬はそれが誰のことを言っているのか、察することが出来た。
「そんなに」
 手にしていた菓子パンをぎゅっと握り締めて言う。
「そんなに好きだったの? 桧山って人のこと」
 夏浦は驚いて眉を上げた。
「誰に聞いたんだ」
 成瀬は正直に答える。
「要平兄ちゃん」
「久保先輩か?」
「そう」
「久保先輩と知り合いなのか」
「家が近所で、勉強教えてもらってる」
「……知らなかったな」
 成瀬は言う。
「オレも知らなかったよ。桧山って人が、アンタの大事な人だったなんて」
「何だそれ」
 夏浦は通行の邪魔になりそうな成瀬の腕を引いて、冷たい廊下の壁に押し付けた。そして、耳元で言い聞かせる。
「オレだけじゃない。みんな、桧山先輩が好きだった」
 その表情は苦しそうだった。
「三年になって引退したって変わらず顔を出してくれたし、卒業してからも……」
「だから写真部つぶしたの?」
 成瀬は睨み上げて聞いた。
 彼は言う。
「王様ゲームって知ってるか?」
「え」
「桧山先輩っていう人は、最初から王様ゲームの王様なんだよ。あの人が言うことは何でも聞くルールになっている。だから、王様のいなくなった国は崩壊したんだ。先輩達が卒業して、部をなくすことは部員の一致した意見だった。みんな、あの人がいなくなったら意味が無いってことに気づいたんだ」
「そんな!」
 成瀬はあったこともない桧山という人間に対して、改めて反発心を抱いた。どれだけ他の人間が彼に依存していたというのだろうか。
 そんなのは、健全な関係じゃない。
 しかし、夏浦は珍しく感情をあらわにしていた。
「……二度と、二度と会えないってことを思い知るには時間がかかったんだ」
「先輩」
 夏浦の顔は、まだ恋をしている顔だ。
 いなくなった今でも?
「お前が写真にこだわってなくて安心したよ。これ以上、関わらないほうがいい」
 それで事を終わらせようという夏浦に、成瀬は食いついた。
「写真部のことは関係なく、アンタに関わるのはいけないの?」
「!」
「アンタがオレを拒絶できないのは、報われない片思いしてるオレを、自分と重ねて同情してるんでしょ? それでもいいよ。何でもいいから!」
 夏浦は、やさしい人なんだと思う。
 成瀬には出来ない。自分の身勝手しか考えられない。
 週末の間、泣き続けて枯れ果てたと思っていた涙が、またじわりと湧いてきて、成瀬の長いまつげを濡らした。
 夏浦は息を飲んだ。
 九月の海を思い出した。
 遥がいなくなったという連絡を受けて、天候の回復したあと、彼らも海岸を捜索した。 
その日の海は荒れていたことなど微塵も感じさせず、太陽の光を受けてキラキラ眩しいくらいに光っていた。
 遥を飲み込んでしまった海がとてもきれいで、彼も一緒に連れて行って欲しいとさえ思った。
 どれだけ、あの海に焦がれたことか。
 つい、拒絶する勢いが鈍る。
「……こないだみたいなこと」
「え」
「こないだみたいなこと、絶対しなかっいっていうんだったらいい」
 とうとうほだされて、夏浦は言った。
「ほんと?」
 成瀬は目を輝かせる。
 その現金な様子に、夏浦は吹き出した。
 見捨てられない。桧山とは全くタイプが違うが、成瀬にはどこか愛嬌があった。
「ほんと、犬っころみたいだな」
 すると、成瀬はめげずにワン!と鳴いてみせた。

 それから成瀬は何かにつけて、三年の教室に顔を出すようになった。夏浦の同級生たちは、面白がって成瀬を構った。
「ご主人様からお許し出たのか?」
「そーですよーだ」
 成瀬は負けずに言い返す。
「ははは、根性あるなぁ」
 彼は元々、年上には好かれるタイプなので、三年生の間でも人気者になっていた。そろそろ大学受験を意識して胃の痛む彼らにはちょうど良いおもちゃだったようだ。
 最初の頃に比べたら、夏浦も幾分柔らかい調子になっていた。
「せんぱーい」
 下校途中に夏浦の姿を見つけ、成瀬は元気良く駆け寄った。
「今帰るとこ?」
「何だ、お前か」
 斜め後ろをうろうろついて歩く成瀬に彼は言う。
「おい、桜の下歩くなよ」
「何で?」
「背中に毛虫ついてんぞ」
 成瀬は真っ青になって背中を手で払う。
「えぇっ。どこ! どこ!」
「ってことになるから」
 夏浦はしれっと言った。
「せーんぱーいーっ」
 夏浦の人の悪さは、根っからのようだった。
 成瀬はからかわれてばかりいる。
 それでも構ってくれるぶんだけ嬉しかった。
 成瀬と夏浦は学校を挟んで通学路が全く逆方向だった。並んで歩けるのは駅までの短い距離だ。
 その途中の大きな神社の前で、観光客らしい外国人老夫婦に呼び止められた。デジタルカメラを差し出して、濠を背景に写真を撮って欲しいという。
 苦手な英語に尻込みする成瀬をよそに、夏浦は快くカメラを受け取った。
「ほら」
と、それを成瀬に渡す。
「えっ。オレが撮るの?」
 成瀬は驚きながら、液晶画面を確認しつつ、被写体の二人から距離を撮る。
「おい、そっからじゃ逆光だぞ」
「え?」
 夏浦に注意されて、成瀬はきょとんとした。
「貸してみろ」
 彼の手から夏浦はカメラを奪って、逆方向へ歩いていく。掛け声をかけてシャッターを押した。撮った画像をプレイバックして確認した老夫婦は大層満足し、二言三言、夏浦に礼を言って立ち去った。
 すると、夏浦は成瀬に向き直ってたずねる。
「お前、もしかしてあんまりカメラのこと知らないだろう」
「うん」
 正直な答えに、夏浦は呆れた。
「じゃあ何で写真部入りたいなんて思ったんだ?」
「それは……」
 アンタ目当てだったとは言えなくて、成瀬は口をつぐんだ。萎れた態度を彼は違う解釈をしたようだった。
「あぁ、悪い。余計なこと思い出させたな」
 藤井のために力を貸したとでも思ったのだろう。
 成瀬は力なく首を振って言う。
「じゃなくて、腹減った」
「はぁ? のんきな奴だなぁ」
「だって減るんだもん。先輩、なんか食わせてよ」
「おまえに奢る金はない」
 夏浦は言ったが、少し考えて言い直した。
「そうだな。うち来たら食わせてやるよ」
「えっ?」
 成瀬は耳を疑った。
「無理にとは言わないけど」
「行くっ。行く行く!」
 どういう風の吹き回しかわからないが、チャンスを逃すまいと成瀬は食いついた。
 夏浦は言う。
「お前みたいな能天気な奴が来たらうちの親も安心するだろうから」
「え?」
「お前んちとは方向違うぞ?」
「そんなの全然かまわないよ」
「じゃあ、JRな」
「あ、待って。チャージしてくるっ」
 成瀬は慌てて券売機に買いに走った。
 

 夏浦の家は、東池袋にあるマンションだった。ドアを開けると、親の声が聞こえてきた。
「司? おかえりなさい」
「ただいま。言われたから連れてきたよ」
「え?」
 息子の言葉に彼女は玄関までやってくる。
 成瀬はぺこりと頭を下げた。
「お邪魔します」
「友達じゃなくて後輩だけど」
 夏浦は付け加えた。
「あらあら、まぁ」
 予期していなかった客に、彼女は慌てる。
「あの、成瀬です」
「二年生? 一年生?」
「一年です」
 緊張した面持ちの成瀬に、母親は頬を緩ませた。
「そうよねぇ。初々しいわぁ」
 照れる成瀬にちらっと目をやって、夏浦は言う。
「腹すかしてるんだって」
「ごはんは作ってるけど……、もっと早く言ってくれれば良かったのに。せっかくだからもう一品作りたいわ。今からスーパー行って来ていい?」
「いいよ。いってらっしゃい」
 すると、母親は火の始末を確かめて、買い物袋と財布を持って部屋を出て行った。
 残された成瀬は不安になって聞く。
「先輩。ほんとにオレが来て良かったの?」
「今更追い出せるわけないだろ。オレ、着替えてくるからそのへんのハンガー使っていいし、カバンも置けよ」
「は、はい」
 成瀬はドキドキした。そういえば、夏浦の私服姿を見たことが無い。
 居間で待っていると、彼は緩めのジーンズとTシャツに着替えて戻ってきた。いつもきっちりネクタイを締めている人の、リラックスした格好が新鮮だった。
「ただいまぁ」
 すぐに母親は帰ってきた。
 夕食がテーブルに並べられた。おなかのすききっていた成瀬はすごい勢いで夕食を平らげていく。
「すっげうまいです!」
 大人しい息子と違い、いきいきとした成瀬を母親はとても気に入ったようだ。
「成瀬くんはカワイイわねぇ」
 何度も繰り返す。
「かわいくないよ」
 と、その度に夏浦は訂正した。
 人懐こくまとわりついてくるから憎めないのはわかるけれど、誰にも彼にも愛想を振りまくところは気に入らなかった。
 成瀬は拗ねる。
「先輩、いつもこんなふうに冷たいんですよ」
「司。大人気ない子ね」
 母親はひとこと息子に注意をして、成瀬の空になったお茶碗を手に取る。
「おかわりする?」
「はい!」
 元気良く返事をする成瀬に、夏浦は呆れる。
「いったい何杯食うんだ?」
 彼自身は先に箸を置いた。
「ごちそうさま」
 と席を立って食器を片付けた後、TVの前のソファに腰掛けて半ば寝転がった。
 結局成瀬はごはんを三杯食べて、デザートのアイスも平らげた。
 母親は機嫌よく食器を洗う。成瀬がソファに近寄ると、夏浦は目を閉じていた。
「先輩?」
 眠っているように見えた。
 長いまつげ。
 薄い唇が誘っているように見えた。
「先輩」
 呼びかけても起きないので、つい、指先で額に触れた。
 母親は台所にいて、背を向けている。
 かがみこんでこっそり唇を近づけようとしたところで、夏浦は目を開けた。
「調子に乗るなよ」
 間近の成瀬に向かって、彼は言った。
「すみません」
 成瀬は青ざめて、気をつけの姿勢をした。
 叱られると思ったところに、玄関から物音が聞こえてきた。
「ただいまーぁ」
 制服姿の中学生くらいの女の子が現れた。
「あれっ? お兄ちゃんの友達? カワイイ子がいる」
「あ、こんにちは」
 たずねられて、成瀬は挨拶をした。
「こんにちは。妹の結です」
 彼女は明るい笑顔を見せた。
 兄にはあまり似ていない。歯切れの良い口調とざっくりしたショートカットがよく似合っている。
 成瀬はぼそっと言う。
「意外に男前な妹さんですね」
「お前、そんなことあいつに聞かれてみろ。殺されるぞ」
 そう言って、夏浦は笑いをかみ殺した。
 おかげでさっきまでの気まずい空気は霧散してしまった。
「何か言った? お兄ちゃん」
 結の声に、なんでもないよと夏浦は答えた。
「全く、かなわないな」
「え?」
「結局オレはお前の言うことばっかり聞いている気がする」
「そうだっけ?」
 成瀬は納得いかずに考え込む。
「まぁいいか。気晴らしになるし、変化がないとな」
 気晴らしといわれたのは悔しいが、成瀬は何も反論しなかった。
夏浦はソファから立ち上がる。
「部屋行こう、成瀬」
「はーい」
 夏浦の後について、成瀬は彼の部屋について行った。

 成瀬の思っていた通り、夏浦の部屋はきれいに片付いていた。ポスターひとつ貼っていない。
 キョロキョロと興味深そうに見回している成瀬の放って、夏浦は机の上に置かれた郵便物に気がついた。昼間のうちに、母親が置いていったもののようだ。勝手に部屋に入るなと言ってもそういうところだけは聞いてもらえない。
 封筒を裏返すと差出人が桧山北斗だったので、不審に思った。
「北斗?」
 手紙にしては分厚い封筒だった。
 こないだ会ったばかりで、わざわざ手紙を寄越すようなことが何かあるのだろうか。手近にハサミが見当たらなかったので、夏浦は封筒の端を指で破いた。
 その勢い余って、中身が床に散らばってしまった。
「あ」
 中には手紙など入っていなかった。そのかわり、数十枚はある大量の写真が床に散らばった。その瞬間、夏浦は背筋に冷たいものが走った。
「うわっ」
 驚いた成瀬は床にかがみむ。
「拾うな!」
 夏浦の制止は遅かった。
 床に裏返った一枚を成瀬は拾った。そのまま返そうとして、ちらりと見えたその画像に、成瀬は固まった。
「先輩、これ……」
 その一枚だけではない。
 あたりに散らばった写真全て、露出が少なくて黒っぽい画面に、ぼんやりと浮かぶ肌色が見て取れた。あからさまに局部まで移った、性行為中の写真だった。
 複数の人間が入り乱れている。
 そのすべてに、同じ人物が写っていた。
まだ完全に大人の体つきになりきれていない、未成熟さが痛々しい。
 そこに写っているのが夏浦だと理解して、夏浦は全身に鳥肌が立った。
 生理的に受け付けなくて、震える声で聞く。
「これ、夏浦先輩……?」
 相手は誰だかわからない。
 けれど、わざわざ聞かなくともこの写真を撮ったのは桧山遥だということは成瀬にも想像がついた。
 吐き気がする。
「こんなこと、無理矢理されてたの?」
 成瀬に、夏浦は青ざめた顔をして答えた。
「無理矢理じゃない。あの写真部は、そういう場所だったんだ」
 必要以上にきっぱりと。
 成瀬を打ちのめすように。
「一年はさすがになかったけど、三年は殆ど。久保先輩だって混ざってた。もっともあの人は責任感が強いから、そのせいでオレにずっと負い目を持ってるみたいだけどね」
 北斗がこの写真を送りつけてきたことは、彼なりの自己主張だ。
 無視をするな、忘れるなと叫んでいる。
 秘密の証拠は彼が握っている。
「何で……そんな……」
 うろたえる成瀬に向かって、夏浦は自嘲気味に言った。
「がっかりしただろう? オレは、その程度の奴なんだよ」
「そんなの……」
「悪いけど、帰ってくれ」
 夏浦は言った。
 成瀬はカバンと上着を引っつかんで、逃げ出すようにマンションを後にした。

 あの日からぱたりと成瀬は教室に姿を見せなくなった。
「いじめすぎたんじゃないのか?」
 同級生のからかいを、夏浦は適当に流した。
 こんなつもりじゃなかった。
 あんな暗い過去を知らせるには、成瀬は純粋すぎた。
 あの青ざめた顔を思い出して、数日後、夏浦は久保に電話をかけた。
「先輩、最近あいつに会いました?」
「あいつ? 成瀬のことか?」
「はい」
 声の調子から、久保は何も知らないようだった。
「あいつんちにバイトは行ってるけど普通だよ? なんかあったのか?」
「ちょっと」
 夏浦は一度言葉を濁そうとしたが、考え直して正直に言う。
「あの頃のことを知られたんで」
 息を飲む久保の様子が電話を通じて伝わってきた。
「本当か?」
「はい」
「そうか」
 受話器越しの沈黙が重い。
「すみません、先輩はあいつのこと、かわいがってるんですよね」
 誰からもかわいがられる成瀬のことだ。久保も気に入っていただろう。
彼の純粋さを、夏浦が傷つけてしまった。
 しかし、久保は言う。
「オレは、お前のほうが心配だな」
 夏浦は苦笑した。
「大丈夫ですよ」
 このくらいのことは大丈夫だと思えた。
 痛みや苦しみから目をそらして、今までみたいに時間を過ごしていくことが出来る。 そんな風に思えるのはきっと、夏浦の心もまた、遥と一緒に海の底に沈んでしまったせいかもしれない。
あの海が見たい、と夏浦は思った。

 数日ぶりに訪れた桧山家は相変わらず静かな場所だった。知らせもなしに訪れた夏浦を、北斗は玄関先まで嬉しそうな顔で夏浦を出迎えた。
「また来てくれてうれしいよ。一人はつまらないから」
 写真を送ったことなど忘れているかのようだ。腕を絡めて、家の中へ彼を連れて行こうとする。
 しかし夏浦は居間の入り口に突っ立っている。
「座らないの?」
 北斗は不思議そうに聞いた。
「あれ、どういうつもりなんだ?」
 用心深く、夏浦は聞いた。
 北斗はしれっとした様子で答える。
「アナタの写真はアナタに返したほうがいいと思って」
「それならネガも返してくれないか」
その頼みには北斗は答えない。
「あの写真、どうしたの?」
 と、逆に聞き返した。
「燃やした」
 夏浦は答えた。
「本当に?」
「本当だ」
 きっぱり答えると、北斗は残念そうな表情を見せた。
「残念だな。ボクの気に入ってたのもけっこうあったのに。どれもオカズにするには最高だったけど、特に好きだったのは……」
「北斗」
 聞くに堪えなくて、夏浦は叫んだ。
「ネガも返せ」
「でも、あれを渡したら、アナタはここへ来なくなるでしょう?」
 北斗は笑顔で拒否を示した。
「ボクは兄さんみたいな傲慢な男は大嫌いだったけど、あんなことをしているなんて思っても見なかったから、あの写真を見つけたときはびっくりしたよ。でも、うちの両親に見つけられなくて良かったでしょう? 悲劇の少年の名誉は保たれるし、アナタはこうしてボクのところへ来てくれる。お互いに都合がいいよね」
北斗の薄暗い目で正面から見つめられて、夏浦は口元を引き結んだ。
 夏浦が彼に弱味を握られているのは事実だ。
 けれど、それだけで彼を訪れているわけではない。むしろ、未だに兄に対して妄執を抱いている彼が気がかりだった。
 誰かに甘えたくて、こんな脅迫めいたことをしたのならやめてほしい。
 会いたいというなら、素直に言って欲しい。
「もうやめよう。あの当時のことをオレは早く忘れたいんだ。桧山先輩の残したものは捨てて、北斗もさっさと忘れてこの家を出たほうがいい」
 それでも北斗は頑なだった。
「嘘だ。兄さんのことが忘れられないのは、夏浦さんのほうでしょ?」
 突然、激しい口調で怒鳴り出す。
「あんなひどいことされてたのに! あんなふうに横暴に振舞っといて、いきなり消えるなんてずるい。ボクは」
「でも」
 夏浦は言う。
「でもオレは、桧山先輩が好きだったから」
「兄さんはバカだよ。アナタの気持ちを弄ぶだけ弄んでさ、ボクだったら……」
 北斗は夏浦に抱きついて、肩口に額を埋めた。泣きつくような彼の衝動に、夏浦は抵抗できなかった。

 気分転換に成瀬は同級生たちと買い物に出かけることにした。
 神宮前に出来たスポーツブランドの路面店に行って、私服を選んでいた。スニーカーを夢中になって選ぶ友人たちは、それぞれ好きなスポーツの話題になって、成瀬にたずねた。
「成瀬って部活入ってないんだろ?」
「うん。なんかタイミング的に入りそびれちゃってさ」
 期限の二週間は過ぎてしまった。
 後からでも入部出来ることは出来るが、特に興味のあることもなくて帰宅部で満足している。
 バレー部の友人が誘う。
「だったらうちの部入らないか。今年の新人少ないんだって」
「うーん」
 成瀬が考え込んでいる間に、友人はレジに並んで商品を買った。
「とりあえず、なんか食わね?」
「そだなー。腹減った」
 手軽に食べられそうな店を探して、賑やかな通りをうろうろしていると、成瀬の視界に見覚えのある名前が映った。
「あれ?」
 成瀬は立ち止まる。
「ん?」
 友人たちは何事かと振り返った。
 明治通りに面した小さな画廊で入れ替えの準備をしているようだった。あたりの壁に同じポスターがべたべた貼ってある。
 そこには「桧山遥写真展」の文字が躍っている。
 立ちすくむ成瀬の前で、作業服姿のスタッフが画廊の前に止めた軽トラックから、手厚く梱包した作品を次々運び込んでいた。 
 彼らに向かって指示を出しているスーツ姿の中年男性が、桧山遙の父親だろうか。
 ポスターに使われている写真は桧山遙の作品に違いない。登校途中の高校生の後姿が淡い色合いで写し取られていた。
「あ、あれ、うちの学校じゃねー?」
「本当だ!」
 友人達も気づいた。
遠景なので、生徒までは判別できないが、背景に移っている校舎は紛れもなく稜家の校舎だ。
 朝の光に溢れた写真は健康そのもので、まるで、記憶の中で作り上げられたようなスクールライフ。
 しかしそれらの光景は、彼らの日々のほんの一部を切り取っただけのものだということを、成瀬は知ってしまった。
 隠されていた奇妙な営み。
その薄暗い檻の中に未だに夏浦は取り残されている。
 成瀬は画廊の作業をじっと睨みつけた。
 桧山遙という人は姿を消して尚、人々を束縛し、王様のように君臨している。
 そんなのはずるい。
 せめて、あの人だけは解放して欲しい。
「どうかしたのか、成瀬」
 様子のおかしい成瀬に、友人は不思議そうに聞いた。
「……渡さない」
「え?」
 成瀬は、そこにいるはずのない彼に向かって叫ぶ。
「アンタなんかにあの人は絶対渡さない!」
 すぐに成瀬ズボンの後ろポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出した。
 生憎、夏浦からはメールアドレスしか教えてもらっていない。素早く文字を打ちかけたが、やはり手を止めて、急に駆け出した。
「おい、成瀬!」
「ごめん! オレ、行くところあるから!」
 驚く同級生たちをおいて、成瀬はJRの駅に向かった。
 夏浦の家は中目黒だから乗換えが必要なので、焦る気持ちを抑えてホームに入ってきた電車に飛び乗った。
 思ったより早く、彼のマンションに着くことが出来た。
エントランスのモニターフォンで部屋番号を押すと、応答したのは幼い女の子の声だった。妹の結だろう。
「結ちゃん。お兄さんは?」
「え? あ、こないだの……」
 突然の訪問者に彼女は驚いていた。
「先輩いる?」
「ううん、いない。今日は逗子に」
「逗子?」
「うん。桧山先輩のおうち」
 それを聞いて成瀬はイヤな予感に包まれた。
「ありがとう」
 礼だけ告げて、エントランスを出る。
 マンションの前で久保に電話をかけた。
「成瀬?」
 寝起きそのものの久保の声が聞こえてきた。
「要平兄ちゃん。桧山って人の家の場所、知ってるよね? 今からオレをそこに連れてってよ」
「はぁ?」
 久保は何のことかわからず聞き返す。
「オレ、やっぱ諦めない。あの人の過去に何があったって関係ないから、もう一度告白したいんだ」
「…………」
 しばらくの沈黙のあと、久保は言った。
「わかった。うちまで来い。そしたら車で連れて行く」
「うん!」
 成瀬は再び駅まで戻った。
 家に行くまでもなく、地元駅のロータリーで久保が、父親のクラウンに乗って待っていた。
 

「あ」
 玄関口で北斗に抱きすくめられ、壁に寄りかかっていた夏浦は、足元に落とした電話の中で携帯電話のヴァイヴレータが鳴っていることに気がついた。
 唇が重なる寸前だった。
 思わず、北斗の体をぐいと押し返した。
「夏浦さん?」
「ごめん」
 東せは急に冷静になって、鞄を拾った。
 北斗は欲情した目つきで夏浦を見ている。
 うっかり流されそうになっていた自分が恐ろしくなった。
「ちょっと、海に行って来る」
 夏浦は唐突に言った。
「え?」
 北斗は面食らう。
「ごめん、ちょっと頭を冷やして来たいんだ」
そう言って、引き戸を空けて家を出た。
「夏浦さん」
 北斗は、後を追いかけてはこなかった。
 夏浦の背中に向かって不安そうな声で、
「戻ってきてよ」
 とだけ言った。

 逗子インターチェンジを降りて、海岸線を走っていた久保の車内で大人しく助手席に座っていた成瀬は、窓の外を流れる景色に突然暴れだした。
「あ、ちょっと! ちょっと止めて!」
「何だ?」
 急には止まれなくて、久保は聞く。
「あれ! 夏浦さんだ!」
「えぇっ?」
 絶対そうだと主張するので仕方なく久保は車を路肩に寄せた。そこから成瀬は歩道へ飛び出した。
 海岸へ続くコンクリートの斜面を降りて、歩きにくい砂浜を駆ける。
「夏浦さん!」
 成瀬は大声で叫んだ。
 波打ち際を歩いているのは確かに夏浦だった。ぼんやりした様子で、今にも海の中に吸い込まれていってしまいそうに儚い。
「夏浦さんってば!」
「成瀬?」
 目の前に現れた成瀬の姿に、夏浦はぎょっとした。
「何でお前がここに!」
「アンタこそ、何してんの」
「何って」
「桧山遥のとこにでも行く気なの?」
 聞かれて、夏浦はぎくりとした。
 そこまで考えていたわけじゃない。
 遥の消えた海を眺めていただけだった。
 しかし、成瀬は駆け寄って、力任せに夏浦の腕をつかんだ。
「うわっ、何す……!」
 驚く夏浦を連れて、海の中へと足を踏み入れていく。
「おい、成瀬!」
 四月の海は冷たい。
 波が殆どないせいで、サーファーもいない。
 膝が沈むほどの浅瀬まで歩いて、成瀬は夏浦を振り返った。
「そんなに追いかけたきゃ行けばいいんだ。一緒に、海ん中沈んじゃえよ!」
「なっ」
 驚く夏浦の頭をつかんで、海の中に沈めようとする。危うく水を飲みそうになって、夏浦は叫ぶ。
「何すんだよっ!」
「アンタがしようとしてるのは、そういうことだろう!」
 本気で怒っている成瀬に、夏浦は気圧されてぐっと息を飲み込んだ。
 成瀬は怒っているくせに、涙ぐんでいる。
 溢れた涙はあっというまに大粒になってこぼれた。
「成瀬、泣くなよ」
「オレは」
 成瀬はしゃくりあげながら喋る。
「オレは、どんなことがあってもアンタが好きだよ。意地悪されても、他の人のことが好きでも」
「成瀬……」
「だから、どこにも行かないでよ。オレだって、アンタに会えなくなるのはイヤだ!」
 次々と零れ落ちる成瀬の涙は波に消えた。
 わんわん声を上げて泣いた。
 頭までずぶぬれになっていた夏浦は、震える腕で泣きじゃくる成瀬を抱きしめた。後から後から零れ落ちる成瀬の涙は、あれほど焦がれた海よりもキレイだと思った。

 久保の車に乗せられて、随分遅いと思ったらずぶ濡れになって帰ってきた夏浦たちの姿に北斗は驚いた。
「いったいどうしたの?」
「北斗、悪いんだけど風呂貸してやってくれないか」
 久保は、久しぶりに会った親友の弟に向かって頼んだ。
「う、うん。ちょっと待って」
 北斗は一瞬、知らない顔の成瀬を見て何か尋ねようとしたけれど、それどころじゃないと思ったのか、何も言わずに廊下の突き当たりにある風呂場へ夏浦を連れて行った。
 久保の隣で派手なくしゃみをしたのは成瀬のほうだった。
「すみません。オレも! オレにも貸してください!」
震える成瀬は、北斗に許可を求めた。
「え、あ、はい」
 北斗はわけもわからず頷いた。
「ありがとうございます!」
元気よく頭を下げて、彼は夏浦の後について一緒にシャワーを浴びた。
「悪いな……」
 久保は呆気にとられている北斗に向かって肩をすくめた。
「いえ……」
 その間に、北斗はいくらでも久保に尋ねる時間があったが、何も聞かなかった。成瀬が誰で、夏浦とどういう関係か、気にはなったが知りたくなかった。
 成瀬と呼ばれている彼は、自分と同い年くらいに見えた。家に閉じこもっている北斗とは違って、明るい外の世界の匂いがした。
 彼を見るときの夏浦の安心したような表情に、彼がもはや遥にとらわれていないことは想像ついた。
 熱い湯を浴びて温まった夏浦は、脱衣所に置かれていた服に着替えた。
 廊下で待っていた北斗は言う。
「それ、二人ともボクの服だからサイズ小さいかもしれないけど、何なら兄さんのほうがマシだったかな」
「いや、これでいい。ありがとう」
「ありがとうございます!」
 成瀬はもう一度頭を下げた。
 思わず目を伏せた北斗に向かって、夏浦は言う。
「北斗。オレ、今日はこれで帰るから」
「……うん」
「あのネガ、燃やしてくれないか? それで、服はうちまで取りに来てくれよ。たまには、お前のほうから顔を見せにきて欲しいんだ」
「うん、わかった」
 北斗は悲しそうに深く頷いた。
 写真にそっくりなので、彼が桧山遥の兄弟だということは成瀬も察していた。彼が夏浦とどんな関係で、どんな気持ちを抱いているかは考えたくなかった。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
 大丈夫、夏浦さんはオレの話を聞いてくれた。抱きしめてくれた。ひどいことをしたけれど、怒ってはいない……と、思う。
 けれど、さっきからろくに口を利いていないのでわからない。
 久保は二人に向かって声をかけた。
「髪かわかしたか? 帰るぞ。オレは今夜、合コンの約束があるんだからさ」
「ハイ」
「わ、ちょっと待って」
 夏浦と成瀬は再び久保の車に乗って、夏浦の自宅まで向かった。
 マンションの前に車を止めた久保は、ドアロックをはずして後部座席に座っている二人を振り向いた。
「着いたぞ」
 歩道の方に座っていた成瀬は一度降りようとして、止めた。夏浦がシャツの裾を握って離さないのだ。
「な、夏浦さん?」
 夏浦はじっと俯いて、どんな表情をしているのか見えない。
 成瀬は久保に聞いた。
「要兄ちゃん、オレ、一緒に降りてもいい?」
「オレに聞くなよ」
 久保はぶっきらぼうに答えた。

 家の中には、結しかいなかった。彼女は部屋でゲームに興じていたので、二人が帰ってきたことにも興味がないようだった。
 夏浦の部屋に入って、成瀬は心配そうに聞く。
「風邪引いてない?」
「うん」
「ごめんなさい。ひどいことして」
 成瀬は深々と頭を下げて謝った。
 夏浦はその湿って一層ふわふわ膨らんでいる髪にそっと触れた。
「いいんだ」
 頭を上げた成瀬の肩に、彼はそっと額をつけた。
「夏浦さ……?」
「お前がいてくれてよかった」
 夏浦は言った。
「先輩」
 たまらなくなって、成瀬は夏浦を両腕で抱きしめた。
「先輩、好き。好きだ」
 繰り返して、力任せに抱きしめた。

 
 鼻先を近づけて、成瀬は聞く。
「先輩、キスしていい?」
「う、うん」
 許可を得た成瀬は、夏浦の薄い唇にそっと唇を重ねた。
ちゅ、ちゅっと小さい音が耳に響く。
 唇を離しても離しても、成瀬は何度も吸いついた。いつまでも続くかと思われたキスに夏浦の手足がとろんと力の抜けた頃、成瀬は熱い息を深々と吐き出した。
「先輩、他も、していいですか?」
 夏浦は困惑する。
「だから、聞くなって」
 ぼそっと答えると、成瀬はとんでもないことを聞いた。
「乱暴にされるのが好きなの?」
「ちが」
 夏浦は反射的に言い返す。
 成瀬は真剣な顔をしていた。もしかして、あの写真を見たせいで、夏浦がそういう性分だと思ったのかもしれない。
 他の男との行為を知ってしまったのだから、いろいろな疑念が抱くのも仕方ないだろう。
 確かに、遙には随分ひどいことをされた。
 けれど、それは望んだことじゃない。
 成瀬はさらにたずねる。
「じゃあ、どうするのが好きなの? アンタのして欲しいこと、なんでもするよ」
「だ、だから」
 成瀬の懸命さに、夏浦はうろたえる。
 異常な行為が好きなんじゃない。
逆だ。
夏浦はいつも、好きな相手のいうことを何でも受け入れていただけだ。
 今は、成瀬の言うことなら何でも聞きたいと思う。だから遠慮がちな成瀬がもどかしくて、夏浦は彼の首に腕をまわしてぎゅっとしがみついた。
「先輩?」
 上ずった成瀬の声が聞こえる。
「好きにしてほしい」
 そう言うと、耳元でごくりと唾を飲む音が聞こえた。
 恥ずかしくて顔を見る勇気はない。
「先輩!」
 成瀬は勢い余って、夏浦をベッドの上に押し倒した。
「ん、くるしっ」
 横たえた夏浦を組み敷いて、息が出来ないくらい激しく口腔内を貪る。成瀬は、今まで溜まっていた想いをぶつけるような深いキスをしながら、服の上からあちこちに手を這わせる。
 シャツのボタンをはずそうとする成瀬の手を払って、夏浦は自分でボタンをはずし始めた。
「オレがやるって」
「いいよ」
 成瀬を無視して、夏浦は上半身を脱いだ。
「えー。脱がしたいのに」
 成瀬はせがんだ。
 さっきも一緒にシャワーを浴びたというのに、成瀬の手で脱がされていくと、急に夏浦は羞恥心が蘇ってきた。
 じっと見つめている成瀬を睨みつける。
「人のこと言ってないで、自分が脱げ」
「はぁーい」
 成瀬はあっというまに真っ裸になってしまう。意外に骨っぽい体つきを、夏浦はまともに見られなかった。
「あんまり見るなよ」
 ためらいがちに下着を脱ぐ彼から、成瀬は目をそらさない。
「やだ。見る! 見たい!」
「バカ」
「照れてるの? カワイイなぁ」
 成瀬はニヤニヤして言った。
 ふだん人からカワイイカワイイ言われているのは成瀬のほうだ。
 夏浦も時々見とれてしまうくらいだった。
 けれども今はその子供みたいな目つきに、欲が混じっている。
「うるさいなぁ」
「強がってんのもカワイイ」
 成瀬は負けずに言い返した。
「それに、すごくキレイ」
 成瀬は、腕や脇腹、胸の辺成瀬手のひらが撫でていく。弱いところに触れられると、夏浦はびくびくと体を揺らせた。
 やがて成瀬の唇は夏浦のそれを離れ、細い顎を撫で、首筋に吸い付いて、鎖骨の突起をしゃぶる。その固い体や特徴は女性っぽさのかけらもないけれど、たとえようもない色気がある。
 成瀬は舌と指で胸の突起を集中して弄り始めた。赤く固くなったそこをぐにぐに指で押しつぶし、時々爪や歯を立ててみた。
「あ」
 その度に夏浦は顎を上げて喘いだ。
「痛い?」
 聞くと、夏浦は首を振る。
 乱暴にされるのは嫌いではないようだ。
 成瀬がいつまでも胸を弄っている間に、下半身はとっくに頭をもたげていた。
 気づかないのだろうかと、夏浦は内心で焦れる。乳首を刺激されるのはもどかしい。
「うぅ、も」
 無意識に腰を揺らす夏浦に、成瀬はやっと気づいた。片手をゆっくりと下ろして、へそのまわ成瀬通り、下腹に伸びる。その下で立ち上がっているものはわかっていたけれど、もう少し夏浦の肌を味わっていたい気持ちもあった。
 足の付け根から内腿の柔らかいところに指を滑らせていると、夏浦は下まぶたにうっすら涙を浮かべて言う。
「バカ、成瀬」
「えっ、ごめんなさい」
 反射的に成瀬は謝った。
「謝んなよ」
 夏浦は余計恥ずかしくなって叫んだ。
「ごめん」
 成瀬はもう一度言って、ようやくそれに手を触れた。
 触れられただけで、夏浦はびくっと雫を漏らす。親指と人差し指で輪を作って上下させると、固さはいっそう増した。
「あぁぁ」
 夏浦は待ちくたびれた快感に喘いでいた。
 こないだのように、声を殺そうとはしていない。成瀬はドキドキして、もっと感じて欲しくて、足の間に身をかがめた。
 舌を出して、先端をべろりと舐める。
「……え?」
 突然の感覚に、夏浦は慄いた。
「あ、や」
 何をされているのか知って、彼は体を枕のほうへ逃がそうとする。しかしその足を押さえつけ、成瀬は猫が水を飲むように、熱心にそれを舐め始めた。
「や、だめだ、それ」
 ただでさえ感じやすい夏浦は、舌での愛撫にうろたえる。
「だめ?」
 成瀬は言いながらもくびれの周囲をぐるっと舐めまわし、吸い付くように先端を咥えた。
「あぁっ」
 温かい粘膜に包まれて、夏浦は一際高い声を上げた。
 成瀬は歯を立てないように気をつけつつ、頬の裏側の肉を押し付けるように深くくわえ込む。
「や、あぁ」
 唇で扱き上げたかと思うと先端に吸いつく。
 それを繰り返されて、夏浦は乱れに乱れた。
「あ、あ、あ」
 両目の端から涙が零れ落ちる。
「イキたい?」
 聞かれ、夏浦は何度も肯いた。
「イッちゃってよ。顔みたい」
「あ」
 成瀬は上目遣いに見上げながら、強く吸い上げた。
「あ、あぁ」
 視線を感じながら夏浦は射精した。
「は、ぁ」
 熱を吐き出して、夏浦は肩で息をついてシーツに沈み込んだ。
 成瀬は口の中に受け止めた夏浦のものを少しためらったあと、嚥下した。
「あっ、何やって」
 気づいた夏浦は慌てる。
 逆はあっても、自分がそんなことをされたのは始めてだった。
 成瀬はけろっとして言う。
「いいの!」
 子供みたいな物言いのわりに、濡れた唇を舐め取る仕草はいやらしくて、夏浦は恥ずかしさ目に涙を浮かべて射精した。
 成瀬はずるずると頭のほうへ移動して、正面から覗き込む。
「夏浦先輩のイク時の顔、すげー良かった」
 そういわれて、ますます顔を赤くする。
「もっと見せて」
「あっ」
 射精したばかりのものに触れられて、夏浦は身を竦めた。
 成瀬はしつこく手の平で夏浦を追い上げた。
「ん、ん」
 敏感になっている夏浦は声が止まらない。
 伏せた目に、成瀬の下半身が映る。はちきれんばかりに膨らんでいる。
「お前のほうが……」
「あ、うん」
 へへ、と成瀬は恥ずかしそうに笑った。
「ほんとにオレの好きにしていいの?」
「いいけど……」
 成瀬はもう一度足の間に潜り込み、今度はもっと大きく開いた。
「やっ」
 一番奥まった場所を晒されて、夏浦は息をのむ。
 成瀬はためらわず、閉じた襞に舌を突き入れた。
「ひ」
 唾液をつけて、襞をひとつひとつをほぐすように舐める。
「ひゃ」
 夏浦は両手でシーツを握って震えていた。
 舌先が潜るくらいになったところへ、指も一緒に突き入れた。
「うぁ」
 関節ごとにゆっくり押し入れていく。
 中の狭さに成瀬は驚いた。意識しているわけではないのだろうが、粘膜はひくついて進入を誘う。
 付け根まで指を入れて、成瀬は顔を上げて聞いた。
「平気?」
「う、ん」
夏浦は必死に肯いた。いくらはじめてじゃないとはいえ、ずっと忘れていた感覚は苦痛に近い。
呼吸をすることで精一杯だった。
成瀬は根気良く狭い道に指を出し入れを始めた。次第にほぐれてきたそこは、二本目の指も受け入れる。関節を曲げながら出し入れしている途中で、夏浦はびくっと今までにない反応を示した。
「あ」
 一番弱い場所を掠めたらしい。
 見れば、さっきまで萎えていたものが急に立ち上がっている。
「ここがいいの?」
「あ」
 成瀬は続けて同じ場所を探った。
「あ、やぁ、あ」
 夏浦は殆ど泣き声のような声を上げた。
 よほど感じるのか、訴える。
「も、やめ」
「う、うん。待って」
 成瀬は焦って指を引き抜き、かわりに自分のものをそこへあてがった。赤くひくつく入り口に先端が触れて、夏浦はぎくりと身を固くする。
 しかし成瀬の勢いが止まることは無く、ぐいと腰を進めて、柔らかく溶けた入り口を割って入った。
「うぁ」
 指とは違う、体の中が満たされる感覚に夏浦は意識が遠くなる。
 奥深くまで成瀬の欲望が届く。
「う」
 そのたとえようもない快感に、成瀬はうっとりと目を閉じた。
「どうしよう。アンタの中に入っちゃった」
 一度腰を引くと、内側の粘膜が引き止めるように絡みついてくる。その感覚に腰の動きが止まりそうに無い。
「あ、でも」
 さっき知った夏浦の良いところを探るように動かすことにした。
 指とは違って、なかなかか難しい。
 何度か抜き差しされるうちに、夏浦は苦痛だけでなく、突き上げられるような快感を得た。
「いい? 先輩」
「うん。いい。成瀬、成瀬」
 名前を呼ばれて成瀬は泣きそうになった。
「先輩。好き。大好き」
「成瀬」
 夏浦は何度も名前を呼んだ。
 その度に抱きしめられるのが嬉しかった。
「う、もう、先輩」
 成瀬はうめいて、深く突き上げると同時に射精した。
「あ、あぁぁ、あ」
 その衝撃と共に夏浦も腹の間にどろりとした白濁をこぼした。

 いつまでたってもぐったり目を閉じている夏浦を成瀬は心配そうに覗き込んだ。
「先輩、先輩。大丈夫?」
 何度も呼び続けるので、夏浦は仕方なく目を開ける。
「あっ、良かった。目を開けなかったらどうしようかと思った」
「……平気……」
 出した声は思ったよりも掠れていた。
「もうすぐ姉さんか親が帰ってくるから、起きるよ」
「そうですね」
 成瀬は起き上がって、夏浦の上からどいた。
 ベッドの端に腰掛けて、あたりに散らばっていた二人分の服をかき集める。青臭い匂いが鼻に付き、さっきまでの行為を思い知らせる。
「あのさ、夏浦さん」
「ん?」
「初恋はかなわないものなんだって」
 思い出したように成瀬は言った。
「だから、オレ良かったって思うんだ。夏浦さんがオレを二番目に好きになってくれて」
「何だよそれ」
 夏浦は口を尖らせる。
「お前はどれだけ経験があるっていうんだ」
「経験はないけど、数え切れないくらいいつも恋はしてたよ? オレ、恋愛体質だもん」
「え!」
 夏浦は、まじまじと成瀬を見詰めた。
 彼は罪の無い顔でニコニコしている。
 不安にかられて夏浦は彼の背中に寄りかかった。
「えっ? 夏浦さん?」
 驚いたのは成瀬のほうだ。まだ火照っている体温を感じてドキドキする。
「もしかして、ヤキモチ?」
 聞いても夏浦は答えない。
「えーっ。うれしいなぁ。でも大丈夫だよ。オレ、夏浦さん以上に好きになる人なんかいないもん」
「どうだか」
 夏浦は肩に顔を押し付けたまま言った。
 このカワイイ顔をした後輩は、夏浦の予想を裏切ってばかりで、これから先も安心していられない。
どうやら次の恋も簡単ではないらしい。

 朝、成瀬は登校途中で夏浦をつかまえた。 
「先輩! おっはよー」
「うっす」
 夏浦は軽く手を挙げて答えただけで、スタスタと言ってしまう。
「あ、ちょっと待ってよ」
「お前に合わせてると遅刻する」
「ひどいーっ」
 あの晩からも、夏浦の成瀬に対する態度は殆ど変化がない。冷たくて、そっけなくて、いつも成瀬をドキドキさせる。
「手くらい繋いでくれたっていいのに」
「バカか、お前は」
 道の真ん中で騒いでいる二人を、同級生達が追い越していく。
「おいおい、また夏浦にいじめられてんのかぁ?」
「負けるなよ、一年」
 応援を受けて、成瀬は拳を振り上げた。
「負けませんっ!」
 先を歩く夏浦の後を追いかけて坂を上っていく。
 学校生活も恋もまだ始まったばかり。
五月の空は青く澄み切って、どこまでも続いている。

おしまい

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