1
同情は磁石みたいなものだ。
弾かれるか、引き寄せられるか。
前から彼はいつでも一人ではなかったが、あの事件の後、彼のまわりにいる人間の性質は変ったように思えた。
私は違う。ずっと前から、事件の前から彼を見ていた。
事件といっても、あの出来事は結末などではなく、大きな不幸のひとつに過ぎなかった。
それに遭遇した何人かの人間の軌道がそれてしまったというだけのことで、単なる傍観者の私が変わる必要は最初から無いのだから。
空を突き抜ける飛行機雲は、最近あまり見かけない。
私は一人、夕暮れ時の紫色の空の下、冬の透き通った空気を切って自転車をまっすぐ漕いでいた。
まだ夕方の四時過ぎだ。
西日がまぶしい。あと数日で冬至を迎えるので、きっとすぐに夜がやって来るだろう。
まるで夜に追われるように、私は家から数えて四つ信号を渡り、墓地の横を通って、工場街の間にある二階建てのアパートを目指していた。
彼に会いに行く時、体はいつもふわふわと軽い。特に今日はちゃんと理由があるので胸を張っていられる。
道路側にある階段の下の、郵便箱の前で車輪を止めた。ちょうどその時、頭上から、やわらかく低い声が降ってきた。
「朋枝ちゃん?」
私の姿を見つけた彼が、部屋の窓から顔をのぞかせていた。
「佳おにいちゃん!」
フェイントを突かれて、心臓が跳ね上がる。
咄嗟に手に持っていた袋を上へ向かって突き出して叫んだ。
「これ持ってきたの」
「なんだぁ?」
「お歳暮でもらったアイス。うちで食べきれないから誰かにやって来いって父さんが言ってたから!」
「やってこいって、犬かオレは」
苦笑する高城佳彦の下がった眉は、確かに大型犬を連想させる。
安っぽい格好をしているが、姿勢が良く、柔和な顔立ちに品性の良さが表れている。TVドラマの中で貧しい役を演じる俳優のようにちぐはぐだ。
彼は窓の中へ引っ込んだかと思うと、少しして外に出て、階段を下りて来た。
「っす。久々だな」
目の前に立った彼は、見上げるほど背が高い。
「そだね。元気だった?」
さりげなさを装って、私は会話を繋ぐ。本
当は近い距離に立つと、条件反射のように私
の顔は紅潮し、足は震えをこらえていた。
「元気元気。朋枝ちゃんは?」
彼はそんなことには気づかないらしく、持っていた袋の中を覗き込む。
「ふつー」
「ふつーね。そりゃおめでとー。つか、オレがアイス好きなの良く知ってたな」
「えっ、うん。そりゃ」
呆れたように言われて驚く。当たり前だ。そんなことくらい基本だろう。好きな相手の情報はつぶさに脳に叩き込むものだ。
例えば、彼の今日着ているシャツが先月会った時と同じものだということくらいも当然わかっている。
「あ」
いきなり、彼はすっとんきょうな声を上げた。
「な、何?」
「でもうちの冷蔵庫、冷凍庫ついてねーや。こんないっぱいあってもなぁ」
「えぇ?」
それは知らなかった。
致命的な失敗に軽い眩暈を覚えた。得意になった傍からこれだ。そういえば彼の部屋にあるのは極端に小さな冷蔵庫だったことを思い出す。
「アイス好きなのに何で冷凍庫ないの?」
「しょーがねーだろ。食べたくなった時は買ってきてすぐ食べりゃ平気なんだよ」
思わず声を上げる私の手から、彼はビニール袋を引ったくった。
「とりあえず今食えるだけ食おう。手伝え」
「なにそれ」
私は呆れつつ、彼の後をついて階段を昇る。
狭い階段は恐ろしく急勾配だが、ドキドキするのは階段のせいじゃない。
この男に恋をして十三年目になるというのに、まだまだ些細なことで動揺してしまう。長い想いは尽きることなく、今も私の体を蝕んでいる。
「佳おにいちゃん」「朋枝ちゃん」と呼ぶ仲だけれど、もちろん私たちは兄妹なんかじゃない。
それは言わば、昔の名残。私たちは立派な他人同士だ。
古いアパートの階段の手すりは塗り重ねた錆止めの塗料が禿げてササクレだっていた。外国人労働者や若い夫婦も住む部屋のひとつに、彼が一人で住んでいる。
立派な実家はすぐ傍にある。両親ともに教師という厳格な家庭。ここは一時期関係の悪化した息子をやっかい払いするために家族が与えた部屋だった。
大学までは黙っていても親が契約し続けていたらしいが、就職してからは彼自身で家賃を払っていると聞いている。
「あー寒かった」
私はブーツを脱いで、同じような形のスニーカーばかり転がった玄関に上がりこむ。広めの六畳一間。畳にはみ出していた毛布を簡易ベッドの上へ蹴っ飛ばし、彼は部屋に私を通した。それほど汚いわけでもなく、生活感のある部屋だ。
畳と埃とコーヒーの匂いがする。
それから、陽の光を浴びた水の匂い。
存在感を漂わせているのは、この部屋で彼
の他に唯一この部屋で生きている一匹の金
魚だ。窓際の浅い青磁の鉢の中に棲んでいる。
立派な水槽に入れているわけでもないが、
こまめに面倒を見ているらしく、上から覗き込むと、窓から差し込む西日を受けて水面がきらきら光っていた。
「何味があんの?」
「えっと、バニラ、チョコ、紅茶、あとマンゴーかな」
「紅茶ちょうだい。おまえは?」
「はい。私はチョコ」
「ふーん。しかし、この寒さにアイスとはね」
彼は台所の引き出しからスプーンを持ってきて私にひとつ渡し、床の上に座った。そこから一定の距離を保って、私もその横に並んで座る。
この、相手を警戒させない距離を測るのが、難しい。
「でも、アイスって夏より冬の方が売れるんだって」
緊張感をごまかして、私は言った。
「へぇ? 何で?」
「知らない。自分で考えてよ」
「あぁ? なんだそれ。おまえも考えれ」
しかし私たちは何も考えずに、それぞれ選んだアイスのカップの蓋を開けた。
「…………」
カチカチに凍っていたはずのそれらは、持ってくる間に柔らかくなっていた。下の上でじわりと溶ける。遅れて甘さを感じる。
「お、うまい。濃厚」
「濃いね」
二人でしばらく黙々と食べていたが、義務感を感じたのか、彼は喋り始めた。
「そうそう、知ってっかぁ? オレらの集団下校の中に、クラスでいじめられてるっつう田中っていたじゃん。あいつ会社起こしたんだってよ」
「へぇ?」
私はスプーンをくわえて間の抜けた相槌を打った。
小学校の集団下校の中に、ぽっちゃりした男子はいた覚えがあるけれど、たいして印象に残っていない。彼がいれば、他の男なんかみんな霞んで見えてしまう。
「子供んときはノロマでも、大人になるとあーいう奴が金持ちになるんだろうな」
佳彦は感慨深げに言った。塾で教えている中学受験を控えた子供たちのことを考えているのかもしれない。
本来なら誰より、最も将来を有望視されていたのは彼だった。
子供の頃の彼といえば、近所で評判の賢い少年だった。
集合住宅ばかりの地域の中で、真新しく美しい庭のある家に住んでいて、そこに住む家族はインテリジェンスに溢れていた。特に幼い兄妹はマネキン人形のように美しかった。
初めて会ったのは、小学校の入学式の次の日。六年生だった佳彦は、私の地域の集団登校の班長だった。
得も知れぬ不安にとりつかれ、母親に背中を押されるようにやって来た私を見て、やさしく声をかけてくれた。
笑顔を向けて、おいでおいでと手招きしてくれた。
彼の長い指が目の前で揺れた。
その瞬間、私は恋に落ちたのだ。
きらきら光る星の砂が目の前に降ってくるような感覚を覚えたことを、今でもよく覚えている。
幸いまだ幼かったせいで、私と同い年の彼の妹に嫉妬を覚えることもなく、卑屈になることもなく、彼女と同じように彼のことを「佳お兄ちゃん」と何の疑いもなく真似て呼んでいた。
だが、ハタチ過ぎればなんとやら。
今の彼は他の人間から見れば、どこにでもいる男なのだろう。
いくつになっても勉強だけは出来たが、それを活用するやる気に欠けた。
大学を出てからは、県内の有名塾で現役高校生相手に講師をしている。いつでもゆるい格好をしているので、本来備わっていた美しさも鈍ってしまった。
子供たちには人気があるらしい。
勉強以外のことでも面倒を見ている。
やさしいところは昔から少しも変わらないけれど、残念なことに彼はこの街に埋もれてしまっている。
灰色のつまらない街に。
おそらくあんな事件がなかったら、本当はとっくにこの街を出て行ったはずだったのに、と私はいつも思うのだ。
この街は、東京にぴたりとくっついた位置にあるが随分寂しくて、化学工場や物流倉庫ばかりが林立している。そして地域一帯を取り囲むように、いくつも川が流れている。
ずっと昔は鋳物産業で全国に知られていたらしいが、そんな面影は残っていない。川の水はいつも灰色によどんでいる。ここで働く人々の、いろいろな肌の色と、聞いたことのない言語にも慣れた。
元からここに生まれた住人も、この街で働くか、都内に勤めて戻ってくるか、どちらにしろ灰色の空気の中で生きているのだ。
私はアイスクリームの粒子を噛み締めながら聞く。
「そんなやつの噂、何で佳お兄ちゃんが知ってんの?」
実家に戻っているわけでもあるまいし、と疑う。
彼は答える。
「人から聞いた」
「どこの人?」
「忘れた」
彼は曖昧にごまかした。
私は胸の中がぐつぐつ煮えたぎり始めるのを感じて、せっせとアイスを口に運んだ。
秘密にしておきたい相手の存在がいることを考えると、嫉妬で気が狂いそうになる。
それでも、喉の奥でぐっとこらえなければならない。
だって、私はとっくにふられている。
高校二年生の終わりに告白した。
いや、告白なんてかわいらしいものじゃない。アレは脅迫に近かった。
進路を決めるどころじゃなくて何も手につかなくなって困ったから抱いて欲しいと言ったのだ。
しかし願いは叶わなかった。
私の懇願を聞いて、彼は眉間に深い皺を寄せ、それから口元を軽く引き結んで、私から目をそらした。それまで見たこともない厳しい顔をしていた。
そのことがとてもショックで、私は頭が真っ白になり、血の気が遠のいて頭がフラフラした。
「ごめん」
と、彼は謝った。
それ以上、言葉が見つからなかったようだ。
それでも私は彼から離れなかった。
何もなかったような顔をして彼の家を訪れたら、彼はほっとしたような表情で嬉しそうに迎えてくれた。
それが彼の望んでいたことだ。
私が痛みさえ我慢すれば傍にいることは出来る。
腹の底が沸騰するような痛みさえこらえ、変わらず「おにいちゃん」と呼び、まるで妹のように振舞っていれば、彼は笑っていてくれるらしい。
二十歳を前にして、諦念にも似た恋があることを知った。
「ごっそさん。うまかったよ」
あっという間にアイスを食べ終わってしまった彼は、口元に魅惑的な皺の浮かぶ笑顔を向けた。
「どーいたしまして。スプーン洗ってくるね。貸して」
「お、さんきゅ」
二本のスプーンを持って私は立ち上がり、流し台でさっと洗って洗い場に置いた。カップのゴミを捨てようとゴミ箱を探していると、彼も部屋から出て来た。
そして急に、手首を握られたのでびっくりした。彼の骨ばった指の感触に身が竦む。
私がびっくりしたまま目を見開いていたので、彼は小さく笑った。
「ほっせぇな」
「え」
「ちゃんと食べてるかぁ?」
疑うように言われて、私は首を振った。
「食べてるよ」
痩せぎすは生まれつきの体質だ。
不機嫌に言って、振り払う。
「そっか。ごめんな」
彼は眉を下げて、簡単に謝る。
謝って欲しいわけじゃないのに。
「残りのアイス、持って帰れよ」
「あ、うん」
作戦は悉く失敗してしまったようだ。
これじゃ長居は出来ない。
彼のほうにしても、まるで追い返すような言い回しになったことに罪悪感を感じたのか、彼は言い足した。
「そろそろ暗くなるし、あぶねーから」
「うん。そだね。じゃあ」
私は背を向けて、玄関でブーツを履く。
これでまたしばらく会えないのかと思ったら、下を向くとちょっと泣きたくなる。
「気をつけてけよー」
ドアを閉めるとき、彼の声が聞こえた。
厚いダウンを着込んでいても吹き付ける風の冷たさに震える。
「うっ、寒い」
首を縮めて階段を降りた。歩き出すと、アパートのドアが開いて佳彦が顔を覗かせた。のんびりした動作で大きな手を振っている。
私は目で軽く答えただけで、黙って自転車にまたがった。
強くペダルを踏み込んで走り出す。
自転車は好きだ。向かい風を受けて走るうちに気持ちが切り替わる。
けれど、時々うまくいかない日もある。
今日のように寒くて、おまけに腹の中が冷たい時には。
こんなに体の外も中も冷え切っていても、胸の奥の固まりは少しも冷めなくてせつなくなる。
2
自転車を飛ばせば、佳彦のアパートから数分で私の家に着く。
築十九年のマンションは、もはや貫禄がある。つまり私が生まれると同時に引っ越してきたので、その後弟が生まれ、今では手狭になっていた。
小さい頃、若い夫婦は将来をどう思い描いていただろう。
この頃よくそんなことを考える。
少なくとも娘の将来に関してはあてが外れたのではないだろうか。申し訳なくて、あまり目を合わせることが出来ない。
バイト以外の用事から帰る時、私は黙って鍵を開けて家に入る。
誰にも気づかれないなら、そのほうが良い。
しかし狭い家ではなかなか難しい。
そっと台所に入り、持って帰ってきてしまったアイスをもう一度冷凍庫へしまっていたところを、居間でTVを見ていた母親に気づかれた。
「あら、出掛けてたの?」
カウンター越しに声をかけられた。
「うん」
「晩御飯食べるなら温め直しなさい」
「うん。今はいらない。父さんは?」
「遅くなるって。さっき電話あったわ」
私はほっとして冷凍庫のドアを閉め、その上の冷蔵庫を開けた。今日の夕食が一人分ずつ、きれいにラップのかけられた小皿が並んでいた。
栄養士の資格を持っている母は料理上手で、習慣的に体に良い料理を作る。
棚の上にそうして並べられていると、鮮やかな緑のほうれん草のおひたしも真っ赤なトマトソースも、食事時間の不規則な私を責めているように見えるから不思議だ。
父はサラリーマンなので、土日以外顔を会わせる事は少ない。今日は土曜だが、学生時代の友人と会うといって出かけていった。
父親も母親も、きちんと生活している。
じっと冷蔵庫の中を見詰めていた私の背後に、いつのまに部屋から降りてきたのか弟が立っていた。
「珍しい。出掛けてたんだ」
「珍しいって何」
「べっつっにー」
高校生の彼はフレームの歪んだ眼鏡の奥からで目を細めて私をちらりと見た。
特に優秀なわけでもなく、ゲームばかりやっているけれど、部活も塾も真面目に行っている彼は、何をやろうと構わない権利を持っている。親や姉に乱暴な口をきく権利や、気にせず親から金をもらう権利などなど。
二番目に生まれた子は得だ。姉の失敗を見てから賢く立ち回ることが出来る。
姉は失敗の見本帳だった。
中学の頃はまだましだったが、すでに高校の頃から学校を休みがちだった。担任がイヤとか、体調が悪いだとかしょっちゅう理由をつけて保健室にいるか、遅刻や早退を繰り返した。幸い私は生来痩せぎすで顔色が悪かったので、心配されこそすれ、責められることはなかった。
あるいは誰も騒ぎ立てたくなかったのかと思う。
六歳から恋愛に身をやつす私は、大人たちにとってどこか不気味な存在だったはずだ。
幼い頃に生まれた固い種は、思春期のその頃にはとっくに根を張って芽吹いていたものから、私の頭の中は佳彦への欲でいっぱいだった。
他のことなど興味が無かった。
おかげで就職もしなかった。
卒業してからの私は家にいるようになった。
閉じこもって、ゲームをやっているかマンガを読むくらい。メールはネットゲームを通じて知り合った顔も知らない相手くらい。
学校の友達は、わざわざ連絡を取ろうと思わない。
道すがら偶然出会うこともあるし、母親から噂話を聞くこともある。細かいことは聞きたくない。生きていればそれでいい。私が私の近況など誰にも話したくないからだ。
ただ生きているだけ。抜け殻みたい。
たぶん私はこの一年半の間に、急速に年老いてしまったのだろう。
無駄な暮らしぶりに、近所のおばさん連中や親には、「今が一番良い時なのに」とため息をつく。
でも「良い時」なんてものは人に寄ってそれぞれ違うものだと思う。私の場合はずっと昔に終わってしまった。まだ世界中が自分の味方だと信じていられたくらいまで。
今は、年齢こそ十九だが、中身は老人のようなものだった。
数ヶ月前からようやくバイトをしているけれど、朝早く出かけ、午後には帰ってきて、やっぱりブラブラしている。
そんな私をあざ笑うように、弟は陰険そうな目つきで私を見る。
「あー、そういや、叔父さんちからの貰いもんのアイスあったよな」
冷凍庫から私が一度持ち歩いたアイスのカップを取り出した。
「何だこれ。何で溶けてんの?」
「知らない。どいて。お風呂入るから」
痩せた背中を押しのけるように、私は浴室に移動して手早く服を脱いだ。洗面台の上の、大きな鏡に上半身が映る。
痩せぎすは遺伝だ。弟も私も、母親に似た体型をしている。自慢にもならない自分の姿を長く見ていたくはないので、浴室に入って湯船につかる。
あんな弟でも昔はかわいかった。
小さくて弱いものはたとえようもなくかわいいものだ。
だから、そういった生き物を攻撃する人間の気持ちは逆さ吊りにされたってわからないだろう。
佳彦の妹もかわいがられていた。
目のくりっとした可愛い子だったそうだが、そこまで記憶に残っていない。私と同い年で同じ組だったから「おともだち」の一人だったというだけだ。
誰だって小学校一年生のころの数ヶ月の記憶などないに等しいせいもあるが、どちらかというと、彼女の手を引く兄のほうに見とれていたせいというほうが大きい。
二つ年上の彼はいつもしっかり妹の手を握っていた。
その横顔に見とれ、なぜ私の手を握ってくれはしないのだろうかと焦がれた。
やさしくて賢い兄。かわいい妹。
人々は真っ黒い川を眺めて過ごす人たちの中で、兄妹は特別に輝いていた。中学受験の模試で全国上位に入ることも、ヴァイオリンを習うことも誰にも真似できない。
そのまま彼らは輝ける未来を歩んでいくように思われた。
ところが、突然悲劇は起きてしまった。
幼い妹が姿を消してしまった。
学校からの帰り道、級友が目を離した数時間の間、忽然と消えてしまった。
当時は大騒ぎになった。ニュースにもなった。PTAも捜索に参加したので、私の両親も毎晩懐中電灯を持って協力したことを覚えている。
けれど、手がかりはなにひとつなく、事件とも事故ともつかないまま時間だけが過ぎた。今度は逆に時間がたてばたつほど誰も彼女の話題を出さなくなった。
最初から女の子などいなかったというふうに振舞うことが、この街の見えない規則となっていき、彼の家は幸せな家からかわいそうな家になった。そして彼は残された気の毒な兄になったのだ。
私は一年生で、親はまだ私の素直な髪と紫外線を知らない肌に夢中だったから、いつまでたっても捕まらない犯人に怯えていた。
おかげでしばらくは佳彦と会える機会が殆ど奪われて、数年が過ぎた。
彼の家庭はその頃を境に両親の不和は始まり、彼は東京の私立中学に無事入学したけれど、すぐに落ちこぼれたらしい。中高一貫校だったので登校さえすれば進級出来るけれど、繰り返す夜遊びや成績不振は、それまでの彼からは想像がつかない。
両親は消えた子供を嘆き続け、残った子供を持て余した。
これ以上の面倒ごとはごめんだとばかりに、外に借りたアパートを与えて隔離した。
中学三年生の一人暮らし。当然、荒んでいたようだ。その都合の良い場所は、学校の友人や先輩に利用されていた。
事件の後、ほとんど会う時間はなかったけれど、私は彼のことを少しも忘れてはいなかった。
二年の間、くすぶっていた。
再びぱっと鮮やかな火がつくまで。
再会したとき、私は小学三年生。
学校の生き帰りにアパートの前を通っていたが、外に出ていた彼を見かけたのは初夏のその日が初めてだった。ランドセルを背負った私は階段の下で煙草を吸っている彼を見つけた。
しばらく見ていなくてもすぐにわかった。黒目がちのやさしい目は少しも変わっていなかった。
俯いて煙草を吸っているくせに、一流中学の制服を着ているところが可笑しかった。
「お」
立ち止まった私を見て彼も気がついた。
「朋枝ちゃん? 久しぶり」
昔と同じように名前を呼んだ。
私も呼び返そうとして、緊張に声が詰まった。
その態度を彼は誤解したらしい。
「あ、えーと」
気まずそうにタバコを足で踏み消し、ひらひらと手のひらを振る。
そばにおいでという合図。
昔と変わらないその仕草に、再び私は恋に
落ちた。近くまで駆け寄って聞いた。
「こんなとこで何してんの?」
「部屋、先輩に二時間貸してんの」
「えぇ?」
自分の部屋を追い出されている彼の状況に、私は眉をひそめた。
「苛められてんの?」
「んなんじゃねぇって」
暇を持て余しているときに話し相手を見つけて嬉しかったのか、彼は煙草を革靴の裏で消して立ち上がった。
「帰るとこ?」
「うん」
「ちょっとつきあわね?」
「うん!」
暇つぶしでも何でも、構ってもらえることが嬉しかった。
「今の担任って誰?」
「まっちょん」
「へー、こわいだろ」
「こわい。すぐ机叩くよ」
そんなことを喋りながら、少し先にあるペットショップまで彼は歩いた。
「うぁ、かわいいっ!」
店先の仔犬や仔猫にのたうっている間に、彼は素早く何かを買って小さな包みを持って出てきた。
「何買ったの?」
「金魚の餌」
「金魚がいるの?」
私は聞いた。
「いるよ、昔一緒に盆踊りで取ったじゃん」
「えっ、アレ?」
驚いた。
ずっと昔の話だ。一度だけ、近所の家族で神社の盆踊りに出かけたことがある。彼も彼の妹も浴衣を着ていたので、すごく羨ましかったことを思い出す。
まだ幼かった私は一匹も救うことが出来ず、店のおじさんの網で取ってもらった黒い出目金をもらった。
その横で、彼の妹は、兄の手を借りて一匹だけすくいとったのだ。
あの時に持って帰った私の金魚は数週間で死んでしまったというのに。
「そう、アレ。元気だよ」
信じられない。
「見に来る?」
彼は軽い調子で聞いた。
「行く!」
きっちり二時間後、彼の先輩とその彼女は帰っていった。
窓を開け放したその部屋に、初めて私は入れてもらった。
掃除と洗濯だけは両親が時々着ていたらしい。意外に片付いた部屋の中に、確かに金魚はいた。
「わー、すごーい。長生きなんだね」
小さな青磁の鉢の中。
さびしそうに小さな魚が一匹だけいた。
「大事にしてれば育つんだよ」
「へー」
私は無邪気に感心した。
「私も餌やっていい?」
「いいよ。これ、箱の中の残り全部入れちゃって」
渡された餌をぱらぱらと鉢の上から落とした。
「金魚って感情あるのかな?」
「あるよ。喜んでる」
「ほんと?」
「ほんとほんと、オレにはわかる」
私は半信半疑で水面を見つめた。
水槽と違い、上から覗き込むことしか出来ないから、感情がわかるとは到底思えなかった。それでも彼は言う。
「オレと二人だけでこいつも寂しいんだ。時々餌やりにきてやってよ」
それから、私は時々部屋へ遊びに行くようになったのだ。
金魚は今でも生きている。
最初は信じていたけれど今はわかる。
彼は嘘をついているのだ。
本当だとしたら、十年以上生きていることになる。
たとえ本当だとしても、成長しているのなら多少の変化があるはずだ。大きさが変わらないことなどありえない。
おそらく、死ぬたびに、自分で入れ替えているのだ。
妹のすくった金魚。
消えてしまった小さな妹。
おそらく知らない男に連れて行かれて無残に殺されてしまったのだろう彼女。
表面上は行方不明のまま。
誰も触れなくなったせいで、まるで最初から存在しなかったような気さえしてくる。
おかしな話だ。
不明ということが何よりよくない。気持ちのやりようがない。憶測だけでがんじがらめになってしまう。真実を知ることと、どちらが残酷なのかわからない。
絶望や愛情が入り混じったまま放置されて煮詰まった挙句、得体の知れない恐れに成り果ててしまっている。
成長しない金魚もまた、妹への気持ちが固まりかけた血液のように赤い。
かさぶたになればふさがるはず。
それでも彼は剥がしては血を流し、繰り返し、鮮やかに生々しい。
彼がどんな気持ちでその小さい魚を見つめているのか私にはわからないけれど、そうしていつまでも気持ちを抱えているから、この街から出て行くこともなくここにいるのだと思っている。
ここにいてくれて有難いと思うより、迷惑のほうが大きい。
彼は、金魚どころか、私まで妹と重ねているからだ。
再会してすぐの頃、私は聞いた。
「あのさぁ」
「何」
「佳彦さんって呼んでいい?」
自分のことを「朋枝」と読んで欲しくてそう聞いた。
ヨシヒコ。
ヨシヒコさん。
いざ声に出してみたら、その響きに私は興奮した。
ところが、色気づいた注文に、彼は眉間に皺をよせてこれ以上ないくらい嫌そうな顔をしたので、慌ててすぐに撤回した。
「冗談だよ。あ、出来たら佳くんとかでもいいんだけど」
「昔と同じででいいよ」
「……佳お兄ちゃん」
このときからふられる兆候は最初からあったのだ。
私が女を感じさせる発言をすると傍に寄せてもらえないことがわかった。しかし、妹と年が同じだからという理由だけで恋愛対象から除外されるのは理不尽だ。
塾の子供たちも同様。彼にとって、彼よりも小さくて弱い生き物は押しなべて同じに見えるらしい。
真綿にくるんで守るべき対象。
得たいの知れない外的が奪っていくかもしれないから。
だが、彼の想いは留まったままでも私の感情は成長する。
確かに私は平均より少し早熟だったのかもしれないけれど。
恐れないで欲しい。私の中にある激しい感情を恐れないで欲しいのだ。
数年間の間、私は、彼がいつか受け入れてくれるのではないかと期待して、私は何かにつけて彼のそばにいた。メールは、返事がなくてもたくさん送った。勉強にかこつけて電話をした。理由が思いつけば会いに行く。
幸い、一人で暮らす彼は、誰でも良いから人と一緒にいることが嬉しいようだった。だから先輩や同級生に利用されていたのだ。
堕落していく一方に思えた彼の生活は、ところが、高校二年生のはじめに立ち直った。
彼はいつのまにか制服のポケットからライターを捨てていた。
ある日、ポケットにやった手を思い出したように下げた仕草に、私は尋ねた。
「吸わないの?」
彼は自分に言い聞かせるように答えた。
「あぁ、やめたんだ。トモちゃんにも怒られるしな」
「何それ。私、怒ったことなんかないじゃん」
ということは他にも怒る女性がいるということだ。
血の気を失った私の様子になど気がつかず、彼は続ける。
「そうだっけ。まぁそんなわけでオレの部屋、禁煙だから」
極端なことを言う。
「それって」
彼を利用する仲間とも縁を切ったということだ。
生活を変えさせるほどの女っていったい、どこの誰だというのだろう。
私はぐっと下唇を噛んだ。
「あ、悪い。これから人来るから」
「え」
「勉強見てもらってんの。大学繋がってるっつっても、さすがにサボりすぎたから」
「誰に?」
「小学校んときのセンセ。覚えてるか? オレの担任まで覚えてないよな」
「うん」
私はうなずきながら、若い女だったことまでは思い出した。
小六といえば、あの事件の起きた年だ。
予期せぬトラブルに、当時新任だった先生の泣き顔をTVで見たことがある。
その後も何かと気にかけていたと聞いたことはあるが、まさか今になっても関係があるとは思わなかった。
「じゃあ、帰る、けど」
私は俯いて言った。
「また来てくれよな」
彼は明るい声で応え、うつむいた私の頭を彼は大きな手で撫でた。
軽く二回。普段だったら舞い上がるようなスキンシップも、このときばかりは意味をなさなかった。
そうして触られるだけじゃ私の欲情は満たされない。
「なんで」
思わずつぶやいた言葉を、彼は聞きとがめた。
「なにが?」
「なんでもない」
「ふーん?」
「バイバイ」
「じゃーな」
彼は特に気にしないで、背を向けて遠くを見つめた。
階段を降りた遠くから歩いてくる女性の姿が見える。
あの女だ。
確かに、その姿に見覚えがあった。
彼が小学校六年の時の担任のまり先生だ。昔は若くてきれいだったが、今では大して外見的魅力も感じられない、落ち着いたずっと年上の女。
しいていえば、まとめた髪の毛の無造作な崩れ方に貫禄が感じられる。
私はドアの前で待っている彼を見上げた。背を向けた、そのうなじを私は恨みがましく睨みつけr。
それからも度々彼女の気配が彼の周りにあった。
あの女が好きなの?
聞きたくて、でも勇気がなくて聞けなかった。
肯定されたら胸がつぶれてしまう。彼が誰とつきあおうが構わないから何も知りたくなかった。
やがて彼は、成績不振も取り戻して、大学では人気のある学部を選んだ。
「なんで」
私はたびたびその問いかけを呪文のように幾度となく繰り返している。
風呂から出た私は、頭の中までふやけて何も考えられなくなって、髪をかわかした後すぐにベッドに横になった。
どうせ明日はバイトの出勤が早い。
布団の中で悶々と時間を過ごす。
目を閉じると、彼のうなじが浮かんでくる。何度むしゃぶりつきたいと思ったことか。
ぬるいスキンシップなんかいらない。
私が欲しいのは力強い愛撫だけ。
無理矢理にでも押し倒してしまえばいいと考えたことも何度もある。いくら私の力ではかなわないといったって、タイミングや卑怯な手をつかえば、何とかなるだろう。狡猾な恐喝の類を頭の中で試行錯誤する。
早く、早くしないといつか、この灰色の街から彼がいなくなってしまうような恐れがあった。
いや、そんははずはない。
今はもう自分の収入と意思で生活している男が未だに同じアパートに暮らしているのだから、どこかへ行こうという気はさらさらないはずだ。
なのに私は気が休まらない。
根拠のない危惧が私には未だに残っている。
彼がここにいるべき人間ではないのだという気がしているのだ。
その日を思うとさっきまでの欲情も消え失せる。そうしてたいていは毛布の中で恐怖に手足を縮めるようにして、眠りについてしまうのだった。
3
バイトを始めたのは、半年前からだ。
労働意欲どころか、生ける屍に近い老いた私を突き動かしたのは、またしても欲望の仕業だった。
その日は生理前だったのか、いくら食べても空腹だった。
朝起きて、佳彦に会いたくて自転車を飛ばし、アパートのまわりをうろうろしていたが部屋にはいない様子で、電話をかける理由も思いつかない私はとぼとぼ帰り道を歩きながら、空腹を抱えていた。
必要なもののひとつが欠けていても心もとないのに、ふたつ以上の欠けた状態はつらい。とうとう耐え切れず入った小さなパン屋は思いもかけず混雑していた。
量販店でもあるまいし、こんな人の少ない街に繁盛するような店が?
中に足を踏み入れると、列が出来ていても、レジではたったひとり、小さな体つきの母親がゆっくりした動作でパンを包んでいた。その奥の扉から、時々ドアの向こうから背の高い女の人が出てきて、焼きたてのパンを並べて戻っていく。
香ばしい匂いに誘われて、私もパンをひとつ買った。
もっと食べたかったのだが棚の上のパンは大きな食パンやバゲットが多く、一人で食べるには不適当な大きさで選びようがなかったのだ。プチブールという小さくて固そうなパンを買って外へ出た。
近くを細い川が流れている。
店の前に自転車を止めたまま、橋まで歩いていった。
柵に肘をつき、川面を眺めるふりをしながら、袋からまだ温かいパンを出して齧りついた。
少し固い外側がパリッと音を立てる。
中はふんわり弾力があって、香りが鼻をくすぐった。
その味ときたら、驚いた。
おなかが空いているせいだけじゃなくて、生まれてから一度も食べたことがないくらい美味しかったのだ。空腹だけでなく、胸の中まで満たすように。
噛み締めるほどにうっとりして、涙が出そうになった。
信じられないことにいつもの満たされない想いが楽になった気がしたのだ。
食べ終わった私は、衝動的に店に戻った。
何も考えずに店にいた老婦人に働きたいと言ったら、奥からさっきの若い女性が出てきて、名前と年齢を聞かれた。彼女が店長で、日高由果さんという独身の女性だった。
即採用。翌日から出勤した。
かわりにレジの老婦人は店に出なくなった。彼女は由果さんの母親で、二人は店の上に住んでいた。
時給も勤務時間も後から知った。
それくらい、衝動的だったのだ。
働きに出るのは朝早くなので、暗闇の中で私は自転車を走らせる。冬は、凍てつくような冷たい風が顔にバシバシ吹き付ける。川沿いの広い通りに出てもすれ違う人は誰もいない。
時々トラックが猛スピードで横を走り抜けていく。
この道の先の、橋をわたったバス亭のところに、バイト先のパン屋はある。夏はともかく、冬は厳しい。顔が歪むほど寒い。手足が縮んだまま自転車を漕ぐので、なかなか前へ進まない。
だから力尽きて、というわけではないが真っ直ぐ店へ行くことは殆どなく、たいてい途中下車する。ちょうど中間地点にあるコンビニエンスストアの前で自転車を止める。
コンビニといっても、名ばかりの店だ。
全国規模のチェーン店ではなく、昔からある乾物屋が品揃えを変えて二十四時間営業しているだけで、ただの家族経営の店舗だった。
昔は乾物屋だった。母親が子供の頃からあった店だと言っていたので相当古い。十数年前に業態を変えた。
一応見かけはフランチャイズのコンビニに似ているが、非なるものだ。昔と変わらない家族が切り盛りしている。その名もファミリーマーケットという。残念なことにその名で呼ばれることはほとんどなく、未だに通称「乾物屋」で通っていっている。そして訪れる客も顔なじみばかり、買い物のついでにお茶を飲んでいくような、のどかな店だった。
たまに通勤途中のサラリーマンが迷いこんだりでもしたものなら、レジの前で立ち話をする様子にイライラしてカウンターを蹴り倒したくなるだろう。
ひとつだけ、コンビニらしい点があるとすれば、二十四時間営業しているところだ。
それはそれで遠距離トラックの運転手などには重宝がられているらしい。
私も、深夜営業を有り難く思う一人だった。寒さに耐えかねて店の中へ入り、真っ先に雑誌コーナーに向かって、発売日のマンガ雑誌を立ち読み始める。
レジにいた店員が近寄ってきて、わざとらしく私の顔を覗き込んだ。
「立ち読み困るんスけどぉ」
間の抜けた口調で文句を言われ、私は眉を上げる。
「客に向かってその口の聞き方はないんじゃないのー?」
「誰が客だ。なんか買ってから言え」
彼は忌々しげに舌打ちをした。
深夜シフトを受け持つ店員は彼一人だった。もちろん、こんな店にバイトが居つくわけもない。
彼は店員といっても、この家の息子だ。
そして私の高校の同級生だった。私と同じくらいの背格好で、私よりもまつげが長くて顎が尖っているからか、見掛けは随分繊細そうに見える。
「たまに買ってやってるじゃん」
「ガムとか飲みもんとかぁ? そんなもんでデカイ面されちゃたまんねー」
お互い乱暴な口調になるのは、親しさの表れだ。
彼は大学へ通いながら家業を手伝っている。
「仕事熱心じゃーん。孝行息子」
冗談でもなく私はほめているのだが、彼はとても不本意そうな顔をする。
「うっせー。好きでやってんじゃねーっての」
彼は口でだけ抵抗を示す。
そうは見えないが、彼の両親は彼を溺愛しているものだから、どんな形であれ傍にいてくれることを望んでいる。
のんびり店をやっていても問題ないのは、彼の家がこの街の土地持ちだからだ。最近は切り売りしてマンションを建てたところもある。息子の自立などハナからえてもいないらしい。
彼の身の上話はすでにじゅうぶん聞いているので、私は読みかけのマンガのほうが気になった。
「はいはい。ねぇ、ところでこの連載、いつも同じ話ループしてるよねぇ」
「そう言いつつ毎週読んでんじゃん。しかもタダで」
「えー? 悪い?」
「悪いよ。時間は?」
「今日はお店開けない日だもん。まだ平気」
「お前さぁ、たまには真っ直ぐ仕事いけねーの? オレだってお前の顔見たくねー時もあんのよ」
「なにそれ」
店番がよっぽど暇なのかいつもは中身のない会話でもつきあい続ける彼が、珍しく乗ってこない。
そういう時はきっとアレだ。
「またフラれたの?」
私はわざとがっかりした表情で言った。
「なっ」
彼は図星を突かれて動揺する。
「うっせー」
嘘をつけないところがかわいい。
確か最近まで仲良くしていた女の子がいたはずだった。
「誰だっけ? 同じガッコの子だっけ」
「そだよ」
「あー、後輩?」
「それは前の話。今は同じサークルの……」
「一重の子だっけ」
ようやく思い出した。携帯電話に写った横顔を見たことがある。
彼は次から次へと誰かを好きになる。
それだけよくフラれるということだ。
彼は深刻な顔をして頷いた。
「男として見られないっていうんだ。何でだよ。オレ、男じゃん」
さっきまで八つ当たりしていたかと思えば、いつのまにか相談口調になっている。
「はぁ……」
私は気のない相槌を打って、雑誌を棚へ戻した。
何て答えようか迷いながら、髪の毛をかき回す。彼はだいたい同じ理由でふられるものだから、慰める言葉もだいたい同じになってしまうのだ。
「でもさ、今回は絶対いけるっていってなかったっけ?」
「だってだって、すっげぇやさしくって、絶対オレのこと好きなんだと思ったんだよ」
「何を根拠に? 誰にでもやさしい子だったんじゃないのー?」
「誰にでもって、何だよそれ。オレわかんねーよ。そんなん何がしたいんだよ」
つまり、学習能力がないということだ。
「よしよしかわいそうに」
私は感情のこもらない調子で言った。
確かに、半べそをかく彼には少しも男っぽさを感じない。長いまつげに涙の粒がひっかかっていた。
確かに、私だって友達でいるくらいなのだから、相手の気持ちもわかるような気がする。
外見に加えて、彼のベタベタした感情の表し方は女性に近くて、自分を見ているようで面倒になる。
彼は地獄の底で這うような声で呻いた。
「もーやだ。きっつい。今度こそオレもうだめかも」
今度こそ、という台詞を何度も聞いた気がする。
「泣かないでよね。次から次と恋愛出来るだけマシじゃないの。私なんかどうなるのよ」
次から次へとふられる彼と、同じ男に執着する私と、どっちがかわいそうだろうか。
どっちもかわいそうだ。
もう少しマシな選択肢はあるはずだというのに、自ら絶望を選んでいる。
彼は顔を上げて聞いた。
「まだ諦めねーの? あの男」
さんざん私が話をしていたからか、佳彦に会ったこともないくせに、篤は佳彦をよく思っていない。
「何も知らないくせに」
「お前こそ、その男のこと知ってんのかよ」
「当たり前でしょ。どんだけ小さい頃から見てると思ってるの」
「そのわりにはさぁ、いまいち現実感がないんだよな。オレよりよっぽど男っぽくないっつうか」
「だから、知らないくせに!」
私は癇癪を起こした子供みたいに言い返す。
「二十四時間そばにいられるわけないんだからしょうがないじゃない。それに、あの人は元々上品なの。年取っても何しても変わらないの。アンタとは違うのよ。アンタなんか見かけがいくらかわいくったって、中身は下心ばっかりじゃない」
「お前に言われたくねーよ」
すかさず言い返されて一瞬口を結んだ。
篤はさらに畳み掛ける。
「どっちにしたってお前みたいなのは好みじゃないんだろ。単にそれだけの話だよ。無理なんだよ。諦めろよ」
それには私はきっぱりと答える。
「諦めるとか、そういう問題じゃないの。彼のいない人生には意味がないの。彼がいるから生きていられるの。求め続けることしか出来ないの」
「うーん。よしよし」
今度は彼が私を慰める。
私たちはお互いを慰めあって安心する。
全く持って進歩がない。
そんな自分たちが愛しくて呆れる。
「まぁまぁ。もう仕事終わりでしょ」
「うん、母さん来たら少し寝て、学校行く。今朝は一限があるから、あるから……あぁぁあの子もいるんだった」
一人で悶えている。
いい加減痛みに慣れたほうがいい。
「おじさん、最近も釣行ってる?」
私は話題をそらすことにした。
「あぁ。おかげで昼間もオレのやることが増えるよ。ママが店番してる間、家の買い物とか洗濯物の取り入れとかさぁ」
「わぁ、さすが孝行……」
「うっせーっての。お前んとこは? みんな元気?」
「元気なんじゃなーい」
私が薄情なことを言うと彼は眉をひそめる。そのへんは放っておいて欲しい。私だって彼の葛藤には口出さないのだから。
「時間いいのかよ」
気がついて、彼は時計を振り仰いだ。
「あっと、行かなきゃ。じゃねー」
私は手を振り、店を出て再び自転車を走らせた。
「由果さんによろしくなーぁ」
彼は失恋直後にしては元気に叫んで手を振った。
慣れって恐ろしいね、と私は思わす笑いながら川沿いの道を走っていく。夜の川面は真っ暗で流れているのか止まっているのかわからない。
まるで私の胸の底に巣食う、真っ黒な泥に良く似ている。
私はきっとこの流れを飛び越えられない。
黒い波に飲まれてしまう。
出て行きたいと思っても出て行けない。
なぜ人の願いと意思はこんなに裏腹なのだろう。それとも、潜在意識では願っていないというのか?
そうじゃない。そうじゃなくて。
みんな大きな見えない力に縛られているのだ。きっと「その時」がくれば解き放たれるはずだ。
例えば由果さんのように。
出て行きたいと願う人間もいれば、戻ってくる人もいる。
「おはようございまーす」
ヒダカベーカリーという名前は、もちろん日高さんという人がオーナーだからだ。
日高由果さんは二代目オーナーになる。
先代は彼女の父親で、どこにでもある町のパン屋だった。だから当然年々さびれていっていた。そしてある日突然脳梗塞で倒れ、亡くなると同時に一度消えた店だった。
由果さんは最初、店を継ぐ気など毛頭なかったという。
トリマーになりたくて専門学校に通いながら、広尾の動物病院でバイトをしていた。都内に一人暮らしをしていたところだったので、父親の報せは思いがけないものだったそうだ。
悲嘆にくれる母親を眺めながら、彼女は考えた。
どうせ働かなくてはならないのなら、この店を継ぐ技術を培えるところで働こうと。一度決意したら強い人だった。パン製造の職に応募し、働きながら技術を身につけた。元よりパン屋の仕事は過酷な肉体労働だったが、彼女はその上でヒダカベーカリーを建て直す道を模索した。
父と同じ方法では、数年でまた潰してしまうだけだ。
彼女なりの店を作らなくてはならない。
生き残る道を探して、猛勉強をした。
そうして五年後、復活させた店は昔とは様変わりしている。
最初は二種類のパンしか作らなかった。
山形パンとバゲット。
そのかわり、徹底的に原料にこだわった。
水から、塩から、国産の信頼出来る原料を仕入れた。イーストではなく天然酵母を使うことにしたのは、自然なイメージというよりも、自分の技術に自信があったからだ。
由果さんにはパン職人としての才能があった。
それは、亡くなった父親に預けられた財産のひとつだった。
こだわりの素材で考え抜いたレシピで、彼女の小さな店はスタートした。改装したのは軒先のテントだけ。店構えも内装もそのままに、今までの色あせた黄色いテントではなく、ダークグリーンのシックな色合いの地に白の飾り文字で店名を描いた。
昔どおり店には母親が出て、娘はひたすらパンを焼いた。
彼女の作り方は普通よりも手間がかかる。他の店に勤めていたときよりも、生活はパン作り一色になった。オープン前から近所にちらしを巻き、試食をたくさん出したおかげで昔の客が覗きに来てくれた。
しかし、殆どの客は惣菜パンや菓子パンの消えた店内にがっかりして帰っていったそうだ。
かわりに興味を示したのは、バイトをしていた動物病院の院長づてで店を紹介された人たちだった。わざわざ遠い場所まで、彼らは車で買いに来た。パンの味もさることながら、容易には手に入らないという条件が客を惹きつけたようだ。
その客の中には弁護士夫人も、エリート会社員も、雑誌編集者もいた。雑誌編集者の女性はさっそくヒダカベーカリーを、富裕層の通う隠れた名店として取り上げたのだ。
おかげでたちまち客は増えた。
パンは並べる傍からあっという間になくなってしまう。
評判を聞きつけて、地元の客も足を運ぶようになった。
増えすぎて、一人でレジを切り盛りしていた由果さんの母親は腰を悪くしてしまったほどだった。
代わりの人手が欲しかったところにやってきたのが私だった。
「おはよう。今日もよろしくね」
「ハイ」
由果さんは、三十代後半の背の高い女性だ。
さっぱりと短い髪を仕事中は三角巾でしばっている。
「早速だけど、先に通販の処理お願いできる?」
「わかりました」
彼女に言われる前に、私はパソコンを立ち上げた。メールフォームから寄せられたメールをチェックする。
「どんどん増えてくねぇ」
「また一度販売方法を考え直したほうがいいかもしれませんね」
「現状維持が一番だよ。無理は良くない」
彼女は難しそうに腕を組んだ。
当初は定休日以外毎日店を開けていたが、今はたった週に一度だけ営業している。
主な販売方法をオンラインに切り替えたのは、私がバイトに入ったことで実現したシステムだった。元々は、ある転勤の多い夫婦に請われて考えだしたことだった。できれば出来たてを食べてくれるにこしたことはないけれど、この小さな店で店頭販売がまかないきれないことも事実だった。
なるべく無駄をはぶいて、一日だけは地元の人のためにだけ店頭販売する。
「それもこれもこの店が本当に美味しいせいですよ」
「それは有難いねぇ」
彼女は他人事のように言う。
職人気質なのだ。
彼女のパンは本当においしい。
人に幸福感を与える。今でも、感情が高まってどうしようもないとき、ボロボロになるときに由果さんのパンは私を救ってくれる。
働くようになって食べるようになった見本に使って残った食パンを、ミルクにひたして食べたパンの甘さと厳しさに涙が出てきた。
けれど、やはり食べ物なので消化すれば幸福感も消えてしまう。
ここへ足を運ぶ人たちも、擬似的な感覚を求めてやってくるのかもしれないと思うことがある。ピンヒールを履いたマダムも、高級車に子犬を置いてくるキャリア女性も、真剣な顔をしてパンをトレイに乗せる。ウェブを通じての注文も、メールに添えて自分の生活を語ってくる人も多い。
「お客さんから感想のメールが来てますよ。子供が、似たような食パンを並べられても、由果さんのだけはわかるって。すごい」
「どれどれ?」
由果さんは私の肩越しにディスプレイを覗き込む。
「ふふ、嬉しいね」
熱心な文面を見て、彼女は本当に頬を赤くして照れた。
たかが食品と呼べないものを由果さんは創造しているのだ。
私もこんなパンを作る人になりたいと思う。出来るなら。
しかしそこでバイトになったといって、パンを焼かせてもらえるわけではない。レジうちや発送作業、私の仕事はすべて、由果さんが作業に没頭するために代わりに担当することだ。
木曜日だけは朝の三時に起きて七時に店を開ける。私は開店の十五分前に来てレジを打つ。売るものがなくなると閉める。
その他の日は昼前に来て作業を手伝う。
どちらも一緒に昼食を取り、夕飯前に帰る。
その間、由果さんは昼寝をしている。
「さて、ひとやすみするね」
「おやすみなさーい」
その間に私は、ウェブの更新作業をしたり、発送準備をする。
ひとつひとつはたいしたことではないが、気をつかう。私がこまごまと動いている横のソファで眠ることに、由果さんは気にならないらしい。そのゆったりとした寝息を聞きながら作業をするのが好きだ。
その間に郵便が来たり、由果さんの母親が昼食を届けてくれる。
一時間くらいで私はメールを返し終わった。
「んあー」
ライオンの嘶きのような声が聞こえた。
「あ、おはようございまーす」
振り向くと、寝癖のついた彼女が大あくびをしていた。
本当にライオンのようだ。
「ハラヘッタ」
「あ、さっきお母様がお弁当届けてくださいましたよ」
「ありがと。仕事終わった?」
「はい。電話したので、あとは集荷待ちです」
さんきゅーさんきゅーと寝言のように言いながら、彼女は弁当箱を空ける。
「お、唐揚げだ。うまそ。朋枝ちゃんも食べるでしょ?」
「はいっ」
私はいそいそとパソコンの電源を切って、テーブルについた。パンだけじゃなく、ここで食べるごく普通の食事も好きだ。
本当は、由果さんのお母さんも一緒に食べれば良いと思うのだが、なぜか遠慮して届けてくれる。
よく働く娘の姿を申し訳なく思っているらしい。素朴な味付けから、そんな気持ちが伝わってくるような気がする。
私も、私の母親の作る料理を毎日きちんと食べていれば、彼女の心のうちがわかるのかもしれない。今は、あまり食べないからよくわからない。
由果さんはその日の気分に寄ってコーヒーやお茶を淹れてくれる。今日はほうじ茶を淹れてくれた。
熱いカップを両手で持って、私は聞いた。
「由果さんは、私くらいの年のころ、何が好きでした?」
「何って? 服とか音楽とか? 夢中なものはいっぱいあったよ。二十四時間じゃ足りないくらい」
「へぇ、今は?」
「今も時間は足りないな。仕事で毎日が終わっちゃう」
しかし私には仕事以外のことをする由果さんが想像できない。
ひとつのことに打ち込む姿に憧れる。
あぁそうか。
彼女が清々しいのは、創るものも、それを求めてやってくる人々とも想いが通じ合えているからだ。相思相愛でバランスが良い。
「いいな……」
「やってみたい?」
「え、あ」
つぶやいた言葉を彼女は少し誤解した。
「なかなか余裕がなかったけど、やりたいなら時間のあるときにちゃんと教えるよ。パン作り」
「あ、ありがとうございます」
思いもかけないことに、私はうれしくなって頭を下げた。
いつかは、と思っていたことだ。
食事が終わって、私は空になった容器を洗っておく。二時近い窓からは、白い光が差し込んでいる。
「さて、仕事に戻るかな」
由果さんは立ち上がって伸びをした。
「ちょっと見ていてもいいですか」
「ん? いいよ」
由果さんの仕込みを眺めていた。
配合した粉を台の上でまとめていく。
力を入れてこねるたび肩が上下する、その後姿に私は見とれる。
肩甲骨が浮かんでは沈む。
腕の筋肉がたくましい。
無理に作ったものじゃない。
あれは、パンを作るためだけの体だ。不必要な筋肉は他にない。
細い体で、渾身の力をこめて生地を台の上にたたきつける。
私もあの力強い腕が欲しい。
彼へのありったけの気持ちを生地に込める。きっと食べたらわかる。言葉なんかじゃ伝わらない気持ちの隅々まで直接伝わるに違いない。私の感情も欲望も丸ごと、彼の唇をくぐり、租借され、体の中へ進入する。
その瞬間を思うと息が止まる。
4
いくら好きなことを楽しくやっているといっても、仕事は仕事なのでうまくいかないこともある。
「やりなーおーしー」
月曜日は営業日だ。朝日の出ないうちに開店準備をすべて済ませる。しかしパンの並べ方が悪いと、時間ギリギリになってやり直させられた。
「あー、はい」
私はがっかりしてしゃがみこみ、違うトレイの上にもう一度並べ始めた。
「早いと思ったらこれだ」
由果さんは呆れたように言って、作業に戻っていった。
私は悔しさに唇を噛み締めながら、力を入れすぎてパンを握りつぶしたりしないよう、手早く手を動かした。
大丈夫大丈夫。
こんな些細なことで悔しいと思うのだから、私はまだマシなのかもしれない。
前向きに考えられるのは、居心地が良かった妄想をまだ引きずっているからだ。
きれいに並べ終わると、由果さんからOKが出た。
「さ、店開けよう」
シャッターを開ける。ドアの向こうにマットを敷いた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
早速、お客さんがやって来る。
顔を覚えている馴染みのお客さんだ。
「おはよう、今日も寒いわねぇ」
そんなことを言うが、上等な毛皮を着ていて温かそうだ。
「ほんと、寒いですねー。あ、こちらお使いください」
私は笑顔で返して、店の中でトレイを渡した。
「ありがとう。この一週間が楽しみだったわ」
「恐れ入ります」
彼女は山ほどのパンをトレイに載せて買っていった。
それからも途絶えることなく客はやってくる。
最初は一人一人丁寧に商品を詰められるが、そのうち流れ作業になってくる。
そのうちに最初のつまづきも忘れた。
しだいに調子よくレジを打つ。
頭をからっぽにしていると、妄想が時々現実に染み出してくる。お客さんに袋を渡しながら思いが募る。
会いたいからといって会いにいくような関係じゃない。理由が必要なのだ。何か理由がないものだろうか。
考えながらも手は動く。
十時頃、客並みが引いて一息ついていた店内に見知った顔が入ってきた。
「おっす」
篤だった。
雰囲気が違うのは、コンビニの制服を着ていないせいだ。暖かそうなニット帽をかぶっている。
「あれ? 何しにきたの」
私は手を止めて眉をひそめる。
「買いに来たんだよ。お前とちがって」
彼は言った。
「ここのパンうまいもんなぁ」
彼には一度パンをわけてあげたことがある。
素直に感動して、それから何度か買いに来る。
「うちで売ってるのとは大違いだよ」
「当たり前でしょ。由果さんのパンは世界一だもん」
私は胸を張る。
自分のことのように嬉しい。
「そりゃまー、値段もけっこうするし……って、言ってるそばから殆どなくなっちまうんだよなぁ」
彼は店の中を見回した。
その通り、商品は殆どなくなってしまっている。だから人もいなくなったのだ。
その店に、もう一人客がやってきた。
「あ」
私は体中が熱くなった。
「え?」
篤が振り向く。
佳彦が立っていた。
「い、いらっしゃいませ」
私は持っていたトングを落としそうになった。ぼうっとして握力がなくなる。
初めて訪れた彼はものめずらしそうに店の中を眺めて言う。
「何でって、買いに来たんだけど。ちょっと遅かったかな」
殺風景な棚の風景に苦笑した。
こんなことは初めてで足ががくがくと震える。
「あ……」
こんなことならお勧めの商品を残しておけばよかった。
ちょうどその時、工房から由果さんが出てきた。
「お待たせ。今日はこれで最後だから」
手早く棚に最後のパンを並べた。
「お、焼きたて」
彼は楽しそうにパンをトングで掴む。
「じゃあこれで」
トレイをカウンターに置いた。
「はい。ありがとうございます」
私は震える手でそれらを袋に詰める。
「あぁっ」
勢い余って袋を破いてしまう。
「お疲れ?」
フォローするように彼は聞いた。
「ちょっとすべっただけ」
傍らで、篤がぎょっとした顔でこっちを見ている。
説明しなくても、彼が佳彦だとわかったはずだ。
驚くのも無理はないだろう。
さんざん佳彦に対する執着は話しているが、彼自身を見たのも初めてなら、私のこんな態度を見たのも初めてだ。
わかってる。私がどんなひどい顔をしているかくらい。
彼を前にするとまるで、ごちそうを目の前に、おあずけをくった犬みたいになる。
無様で、どうしようもない。
「あのさ」
佳彦は千円札を出して、言った。
「何?」
ためらって、それから首を振る。
「……なんでもない。今度言う」
「えぇ?」
私は気になって重ねて聞いた。
彼はごまかして言う。
「バイトどう? パンばっか食ってんの?」
「そんな食べてるわけじゃないし、食べてても飽きないよ。由果さんのパンはいくら食べても美味しい」
「お前は作ったりしないのか?」
聞かれて、私は思い切り首を横に振った。
「無理無理」
答えて、でもこないだの由果さんのセリフを思い出した。
「あ、でも今度作らせてもらうかも」
すると彼はすごく嬉しそうに笑った。
「へぇ。作ったら食べさせてくれよ」
「あ、うん!」
私は力強く答えた。
「じゃあな」
「ありがとうございましたっ!」
後ろに向かって手を振って出て行く彼をぼうっと見送った。
それまで黙って突っ立っていた篤は言う。
「あれが例の男なのか、そうか、ふーん」
値踏みするように目を細めた。
「生きてる人間だったんだ……」
「なにその感想!」
私は憤慨した。
「それにしても、お前なんて顔してんだよ」
「う、うるさいな」
今更言い訳も出来ない。
「何よ。悪い?」
開き直る。
「べっつに」
にやにやしている顔が憎たらしい。
全部会話を聞かれていたことが、今となっては恥ずかしくなる。
他の人には絶対見せない愚鈍な私を見せてしまった。
「パン作らしてもらうの?」
彼は聞いた。
私は目をそらし、照れ隠しに急いで喋る。
「いつかね。その時は、篤にも食べさせてあげるよ」
彼は思い切り首を振った。
「いいよ。なんか変なもん入ってそう」
「変なもんってなによ」
「怨念とか」
あっさり言うところが悔しい。
「失礼なやつ」
「だってさー。ま、いいけど」
彼は文句をやめて、抱えっぱなしだったトレイをカウンターの上に放り出した。
「腕が痺れた」
「ばっかじゃないの」
私は彼のパンを袋に詰めて渡した。
小銭を受け取って、彼は背を向ける。
「じゃーな」
「ありがとーございましたーぁ」
棒読みで言った。
その後は最後の客が、すべてのパンを買っていって一日が終わった。
売り切れるのも、いつもより早い時刻だった。つむじ風が店ごとさらっていったように時間が営業時間が終わった。
私はまだ興奮が冷め遣らず、まだ眠って欲しくなかった。
「由果さん。今日、そんなに疲れてないですか?」
「うん? 何?」
疲れた時に良くやる習慣で、由果さんは、ペットボトルの水を一気飲みした。
私はためらいがちに言う。
「あの、こないだ言ってた……生地触らせてもらえるっていう話」
勢いにまかせてだが、おこがましいのは重々承知だ。
一度くらい、意思を示しておけばそのうちなんとかなるかも。
ところが、
「あぁ。そうだね。いいよ」
意外にあっさりしていた。
「ほんとですか?」
「もちろん。どっかの店のガンコ親父じゃあるまいし、今日は時間があるからやろう」
浮かれた私は、さっきの気になる出来事などすっかり頭からなくなってしまったのだ。
「爪の中まで手を洗って、髪をきっちり止めてきてね」
「はい!」
ボール一杯分、調合済みの粉を渡された。広い作業台の上で体重をかけるように練る。叩きつける。
想像していたよりも力が要る。当然だがとても由果さんのようにはいかない。
それでも、私の手を伝わって、この生地の中に溶け込んでいくみたいだ。彼が咀嚼して飲み込んでくれることを思うかべると、ぞくぞくする。
粉まみれになって生地を作った。
寝かせるころにはぐったりしてしまった。
「疲れた?」
「はい」
貧血の時みたいに足元がふらふらする。
「あはは。寝てもいーよ。途中は見ててあげる」
「はい」
私はソファに横になった。
そうしたら最後、まぶたが重い。
由果さんが寝汚いことも納得がいく。これはかなりの重労働だ。
「って、もう寝ちゃったの?」
だって眠かった。
ソファでうとうとながら、けれども頭だけは回転していて、朝からの出来事を振り返っていた。
今日は妙な一日だった。ついていないと思ったら、どんどん調子が上がっていった。
篤が来て、佳彦が来た。
無理矢理理由を作って会いに行かなくても会えるなんて夢のようなことだ。
由果さんの足音が聞こえる。
ルームシューズの軽い足音が、耳に心地よい。人のそばで眠るのはこんなに気持ちが良いものなのか。
「朋枝」
名前を呼ばれて鳥肌が立った。
由果さんの声ではなかったからだ。
目の前に彼が立っている。
「どうしてこんなとこに。由果さんは?」
店の向こうにも見当たらない。
どこへいってしまったのだろう。
それよりもまず私のこと、「朋枝」って呼ばなかった?
しかし、私の混乱など無視して彼は突っ立っていた。
「ごめん」
うつむいて言った。
「え。何?」
わけがわからない。
混乱していると、突然抱きしめられた。
「ごめん。我慢しようと思ったけど無理」
「あ、うそ」
その瞬間、体中の力が抜けてしまった。
「我慢って」
「今までのこと全部」
彼は苦しそうに言う。
「こんなことしちゃいけないって、いつも思ってたから」
「なんで。私は、許してたのに?」
「うん。オレが悪い。オレが」
彼の髪が私の頬に触れる。
いい匂い。
家族と同じシャンプーの匂いじゃない。
彼の温もりを全身で感じることが出来て、そのあたたかさに下まぶたが溶け出すように涙が出てくる。
「ごめんな。そんなふうに泣かせるつもりじゃなかったんだ」
彼は、私の頭を撫でて真っ赤になった目を覗き込んだ。
子供にするような手つきじゃない。
長い髪をすくっては流す。
「ち、ちがうよ」
心配させたくなくて、悲しくて泣いているんじゃないと主張したくて私は声を絞り出す。
「そうじゃなくて」
「あのさぁ」
それを遮り、彼は決まり悪そうに言った。
「あの家を出るきっかけがないんだったら、オレの部屋で一緒にくらさないか? どこに行ったっていいよ。東京だって、他の県だって、外国だって」
「え」
「そのほうが自然だろう?」
彼は、魅力的なしわを浮かべて笑った。
こんなやさしい視線で見られたら、いつもなるべく押し殺してきた欲望を抑えることができなくなってしまう。
またすぐに眉を潜めて、厳しい顔をするんじゃないだろうか。手ひどくはねつけられたら、立ち直るのに時間がかかる。
すがりたくてもすがることができず、どうしてよいかわからなくなって、欲望と絶望がぐちゃぐちゃに交じり合って余計に涙が出てくる。
次から次へ溢れる涙を止めることが出来ず、両手で顔を覆った。彼はその強い腕で私をしっかり抱きしめる。
「佳彦お……」
力強い腕だった。
ほらやっぱり、思ったとおり。
細いけれど、しっかりしている。
由果さんの腕と同じだ。
佳彦は私の上にのしかかって、貪るようにくちづけた。
ずっとこうして欲しかったんだ。
嬉しくて泣きそうだ。
私はまるで心を持たないパン生地のように従順に身を委ね、彼の感情を受け入れる。
由果さんにかかると思うままのパンが出来上がるように、私もまた彼の腕の中ではとても抗えない。
少しずつ、やがて激しく。
捏ねられるうちにだんだんと、痩せぎすの体がやわらかくなっていく。骨さえも柔らかく弾みだす。
形を失い、とろとろになるまで。
感触を確かめるように、長い指が肌の感触を這い回る。息づいた種のような乳首を捻る。日焼けのしていない柔らかい肉を、自分でしか触れたことのない粘膜を撫でられて頭の奥がじんとしびれる。私の胸も、おなかの奥のほうも、興奮で破裂しそうなくらいに膨れ上がる。
何度絶頂に達しても足りない。
気持ちが良くて気絶しそう。
いつか、彼に租借され、腹の底で消化されるために、私は発酵していくのだ。
いつのまにか私の足の間は濡れて、雫が太ももの内側をつたう。瓶からこぼれたシロップみたいに次から次へと溢れて止まらない。
本当にシロップみたいに甘かったらいい。
煮詰めた樹液以上の甘さで、彼が忘れられなくなったらいいのに。
彼は言う。
「一緒に暮らそう。そのほうが自然だよ。だってオレたちは兄妹なんだから」
5
妄想にも失敗がある。
これはひどい。最悪だ。
悪酔いしてしまったようなだるさに、手足がびくともしない。
私の足の間に出来た小さな水溜りは未だどこにも滲みこむことなく、今までのぶんを全部足したら新しい海がひとつ生まれているくらいだ。
目を閉じたままソファの上で呻いていると、間近からはっきりした声が聞こえてきた。
「起きろー!」
「ふわっ!」
由果さんにゆさぶり起こされた。
眠っていたわけじゃないけれど、助かった。
あんな世界から一刻も早く抜け出たい。
「発酵終わったから、成形するよ」
「はいっ」
ボールの中のなめらかな塊は、驚くほど膨らんでいた。
生命力を感じさせる。
「最初はちゃんと計って作った方がいいね」
スケッパーで切り分けた後、また数分時間を置く。
その後ようやく見本を示してもらいながら、丸めていった。
「はぁ。同じようにやってるのに全然ちがーう」
「まぁまぁ、器用なほうだよ」
「くやしいっ」
最初は笑っていたが、しだいに真剣になっていった。
由果さんは興味深そうに私の手元をじっと見ていただけで、あまり細かいことは言わなかった。
天板に並べ、霧を吹いて、窯に入れた。
焼いている間は、由果さんがソファで寝ていた。
私はいつも通り、メールオーダーの処理をしながら、ドキドキして時間を過ごした。
タイマーのアラームが鳴って、立ち上がった。
由果さんも自分で起きてきて、窯を開けた。
「わぁ!」
私は思わず声を上げた。
出来上がったパンは、やはり不細工だった。
何とかごまかせると思っていたわずかな違いでも、焼きあがってしまうとひどいものだ。
しかし、香ばしい匂いに、劣等感は薄くなっていく。
「食べてみるでしょ?」
「はい」
「じゃあ冷ます間にコーヒー淹れよう」
「やった。ありがとうございます」
時間をかけてコーヒーを入れた。いつもはお弁当を広げるテーブルの上に、由果さんは焼きたてのパンを入れた籠を載せた。
私はカップにコーヒーを二人分注いで、椅子に座る。
「いただきます!」
一番不細工な形のパンを手に取った。
「あっつい」
指先で持ち替えながら、それでも大きな口でかぶりついた。
「おいし?」
由果さんは聞く。
「はい!」
「そりゃあ、原料が良いからね」
彼女は冗談めかして言った。
「ですね」
私は素直に感心した。
形は悪くても、それなりに美味しい。
何よりも自分の作ったものだから、愛しさがこみ上げる。
「じゃあ私も頂きます」
丁寧に頭を下げる由果さんに、私は笑う。
「どうぞ。召し上がれ」
彼女はぺろりと手のひらくらいのパンをひとつ平らげた。
「ん、おいしい。朋枝ちゃんの気持ちがこもってるよ」
「えー。味は由果さんでしょ?」
「違うよ。さっきのは冗談。捏ね方も成形も味に響くに決まってるじゃない。ここまで作ったのは朋枝ちゃんだもの。朋枝ちゃんの味だよ」
「そういうもの?」
私はひとくち齧ったパンを噛み締めた。
じんわりと味が口の中に広がる。
こねるときは力いっぱい、気持ちを込めた。
それが私の味となって人に伝わるとしたら、恥ずかしい。
「あの子」
コーヒーを飲みながら、由果さんは言った。
「今日店に来てたあの子でしょ? 朋枝ちゃんの好きな子」
「えっ、篤じゃないよ!」
咄嗟に私は言ってしまった。
「あつし?」
「あ、だから、帽子かぶってた子」
「あぁ、その子じゃないよ。もう一人、喋ってる子いたでしょ」
「えぇ?」
彼女から見たら佳彦も子供扱いなのだということに気がついて、少しおかしくなった。
「なんでわかるの?」
「あの子の余裕が見えた」
「え」
どうせ私の態度で気がついたのだろうと思ったから、その返答は意外だった。
「絶対自分を裏切らない相手に対する余裕で、アンタに接してたからね。男ってそういうの、わかりやすいじゃない」
「でも……、彼は私のこと好きじゃないよ」
「それはまた別の話だね」
コーヒーを飲み終えた由果さんは、カップを流し台に置いて、もう一度工房へ戻った。
残りのパンをひとつひとつ丁寧に袋へ入れて口を結ぶ。
最後に手提げ袋で二つにまとめてくれた。
「比較的形の良いのはこっち。どうしようもないのはこっち。どうしようもないのは自分で食べなさい」
袋を渡されて、私は照れ笑いを浮かべた。
見透かされているとおり、佳彦には食べてもらうつもりだった。
「ありがとう、由果さん」
彼女は大きな欠伸で答えた。
「寝てなくて大丈夫?」
「うん、これから仕入れに出るから、朋枝ちゃんはもう帰っていいよ」
彼女は三角巾をはずした。
「はーい。お疲れ様です。お先に失礼します」
「ご苦労さま」
私は頭を下げて、荷物を取って、ダウンを着込んだ。
外に出て、後ろでまとめっぱなしだったゴムをはずす。
長い髪がいっぺんに風に吹かれる。冷たくて震える。けれど由果さんに後押しをもらったような気がして背筋が伸びる。
店の外に置いてある自転車にまたがり、上機嫌に走らせる。
空は灰色だけれど、遠くのほうは晴れて陽が射している。
やっぱり今日はぐんぐん調子が上がる日だ。出来の悪い妄想も、ちょっとした失敗も、一度全部ひっくるめて平らに伸ばして丸めたら、なけなしの希望も膨らんでくる。
彼についていけば、私だって川の向こうへ渡ることも出来る。一緒に暮らすなら、何もこの街じゃなくたっていい。
何故こんな素敵なことに今まで気づかなかったのだろう。
長すぎて想像がつかないけれど、止まっているように見えた川も少しずつ流れているのだから。
交差点を渡り、墓地を通って、アパートについた。
階段の下から見上げると、彼の部屋のドアが少し開いていた。
「……?」
不思議に思って私は階段を上がり、ベルを鳴らす前にそっと中を覗き込んだ。
隙間から、キッチンに立つ彼の横顔が見えた。流し台の前でうろうろしている。
「?」
私は思い切ってドアを開けた。
「佳おにいちゃん?」
彼は必要以上にぎくりと驚いた。
「あ」
言葉を失ってきょろきょろまわりを見回し、手に持っていた何かを投げ捨てる。
私も驚いていた。こんなふうにうろたえた彼は見たことがない。
彼の部屋が前に来たときの様子と全く違っていた。何もない。あったものが何もない。
家具から電化製品から残らず。
彼の足元にあるスポーツバッグひとつだけが目に入った。
「何? どこ行くの?」
責めるように私は尋ねた。
皮膚の内側を撫でられるように、なんだか嫌な予感がした。
彼は無言でバッグを肩にかけ、私の立ちはだかる玄関に向かって歩いてきた。
「……頼む」
彼はかすれた声で言い、私を軽く押しのけた。
「え」
「連れて行こうとしたら、死んでたんだ。もう時間がない」
恐ろしい顔でまくしたて、私の横をすり抜けるように出て行ってしまった。
私は振り向いて、階段を駆け下りていく音を追う。
「ちょっ、それ、私の!」
乗ってきた自転車を奪われた。
「泥棒!」
彼はあっという間に去ってしまった。止められようがない。
わけのわからない私は追いかけることも出来ず、ただ、呆然と突っ立っていた。
いつまでもそうしていてもしょうがないので、何もなくなった部屋の中に上がりこんだ。
本当に何もない。
手がかりも残されていない。
彼は突然出て行ってしまった。
そうだ。
彼はいつだって変化していた。
環境も、気持ちも、行動も。留まっていたわけじゃない。気づかないふりをして、現実から目をそらしていたのはいつも私のほうだった。
彼は私の知らないところで呼吸をして、私の知らない欲望を抱え、彼なりのタイミングを伺っていただけのことだ。
あるいは、彼と彼女の。
「死んだって、何が?」
からっぽの部屋の中をひととおりうろうろした挙句、見つけたのは流し台の中にある金魚鉢だけ。
「これのこと?」
金魚鉢の中に金魚はいなかった。
その横で、冷たいステンレスの上に横たわっていた。慌てて水の中に戻してみたけれど、ぽっかりと浮かんだままで泳ごうとはしない。
とっくに息絶えていたのか。
連れ出されそうになって、この小さい生き物なりのの抵抗だったのかもしれない。彼の古い感情が煮詰まった小さな小さな赤い塊は連れて行かれることを拒絶して、ここに残ったのだ。
時間がないというからには、どこかに誰かを待たせているのだろう。
過去と未来を、両方手に入れようなんて、ずるい。
ずるい彼は、頼むと言って、私に金魚の死骸だけ残していった。
力が抜けて、私は冷たい床に座り込んだ。
「そんな」
あんまりショックで涙が出てこない。
「食べてくれるって言ったのに」
持って来たパンは玄関に落っことしてしまった。
私の想いを抱えて膨らんだパンは、誰にも受け止められることもなく腐っていく。
かわいそうに。
かわいそうにかわいそうに。
私はいてもたってもいられず立ち上がり、流し台の淵を掴んだ。ひやりとした感触に、正気が戻ってくる。
そしてためらわず、腹を見せて浮かんでいる金魚を片手で掴んだ。
ぬめった鱗の不快感に鳥肌が立つ。
それでも覚悟を決めて、口へ持っていって飲み込んだ。
冷たく不愉快な塊が喉の奥をつるりと過ぎて、食道を通っていく。たまらない生臭さに吐き気がして涙が出てきたが、けして吐き出すことはしなかった。
吐き気は簡単に消えるものでなく、喉に爪を立てて我慢する。
金魚は私の腹の中におさまった。そのうちに消化の道順を辿るだろう。そうして彼の煮詰まって固まった恋慕の固まりは、ゆっくりと私の中で血となり肉となる。
おしまい